天空の黒 大地の白★番外編★レゾンデートル(2)
その数か月後――本格的な冬の訪れも間近くなった12月初旬。ブランシュ伯爵邸で奥方は胸に手を当て、興奮した様子で歩き回る。「なんて名誉なことでしょう。この屋敷にレティシア様をお招きできるなんて!」間もなく15歳を迎える、王女レティシアの婚約が決まった。北方にある聖ミハエル大聖堂で、婚礼の許しを司教から受けるのが王族のならわしである。その巡幸の旅で、伯爵邸に立ち寄ることが決まったのだ。レティシアが王位を継いだあかつきには、いよいよアルブレヒトが黒獅子の騎士に選ばれるのも間違いないと、屋敷中が沸き立った。そうして迎えた行幸の当日、館には近隣からも人が集まって、大変な混雑だった。老王は姫君をめったに王宮の外に出さず、掌中の珠のように育ててきたのだから、なおさら王女の姿を一目拝もうと人々が押し寄せたのだ。馬車で乗り付けたレティシアが、アルブレヒトに付き添われて屋敷に入る。ようやく5つになったティアナは、本物のお姫様というものを見たくて、それにアルブレヒトが仕える相手を知りたくて、ホールの人混みをかき分け、大人たちの隙間から彼女を覗いた。伯爵の娘たちは姫君に挨拶をするが、預かりものの彼女には、そのような機会はない。騎士にエスコートされた王女が、ゆったりとホールの中ほどに歩み、彼女の前を通り過ぎる――大人の腰のあたりから顔を出して熱心に見つめる幼い少女が、目にとまったのだろうか――レティシアは、ティアナに向かってにっこりと微笑んだ。その瞬間、ティアナの心臓は早鐘のように鳴り、形容しがたい熱さと苦しさが彼女を満たした。美しい、などという一語では、あまりに足りない。幼い彼女には、どう言い表せばよいか分からなかった。その高雅さ、麗しさ。周囲の空気さえ塗り替えてしまいそうな、まばゆさを――それは、圧倒的な力であった。生まれながらに高貴な者だけがもつ、「正統さ」という名の光。***「ふぅ・・・」レティシアに見入っていたティアナの真横で、深々とため息をつく赤毛の青年がいた。年のころは18ほど。屋敷に時おり出入りしている、子爵家の息子テオドールだ。以前からアルブレヒトに心酔している彼だが、いまは熱っぽい視線を姫君に注いでいる。「何とかしてお仕えできないかなぁ。姫様・・・俺の女王陛下・・・レティシア様!」内面の声が丸聞こえになっているのも、少女に不審がられているのも彼は気づかない。「あぁ、あの白い御手を、口づけで埋め尽くしたい・・・」ティアナは青年から一歩距離を置いて、再び姫君と騎士を見つめた。アルブレヒトは常に王女の傍らにあり、王女に意識をそそいでいる。二人のいる光景は絵画のようで、おいそれと近寄りがたかった。冬の足早な夕暮れが近づくころ、ノースポールの花束を持った少女がティアナに駆け寄る。「ねぇ、花氷をつくろう!」白銀色の豊かな髪をした彼女は、アルブレヒトの妹だ。「うん・・・!」年が近い二人は、連れ立って庭園に向かった。朝の冷え込みが強くなってきたから、うまくいけば明朝、姫君に見せられるだろう。ティアナは無性に、あの王女に何か美しいものを差し出したくなったのだ。二人で目当ての水鉢に、仕込みをする・・・だが近づいてくる人の気配に驚いて、少女たちは慌てて館へ駆け戻っていった。「アル、見て!」ブランシュ邸が誇る庭園の一画――別名、水鏡の庭。その名の通り、ひとかかえ程の石造りの水鉢が据えられ、水底に愛らしいノースポールの真白い花々が沈められているのに、レティシアは驚きの声をあげた。「あぁ、妹たちが施したのでしょう。もう薄氷の張る時期ですから、見計らって花を入れれば早春まで楽しめると、毎年そうしているのです。」「素敵・・・ねぇ、今度・・・」言いかけた彼女は、口をつぐむ。ベンチに腰を下ろして、アルブレヒトを隣に呼び寄せた。「――私が王位をついだら、貴方はきっと黒獅子の騎士になる。」「私も、そう願っております。」このところ、老王は衰弱の度合いを一段と強めている。そのためレティシアの成婚を急いでいるのだ。青い瞳にかかるまつ毛が、うっすらと濡れる。「・・・本当は、恐ろしい・・・これから何が起こるの?」叔父にあたるジークムント公爵は、彼女を王位後継者と認めていない。慣習法を曲げて女を即位させようという国王に、反発した一部の諸侯が王弟ジークムントとひそかに接触したという噂まである。「姫様、クロイツァー宰相殿も、ボルク将軍も、あなたのお味方なのです。誰にも継承の邪魔などさせません。お気を強くもつのです。」「でも何かあれば、貴方の身まで危険に――」アルブレヒトの腕が、レティシアを抱き寄せ包み込む。彼の黒衣は守るべき主君を覆うようにして、低く抑制された声が告げる。「何があろうと、私は最後のときまで姫様につき従い、守り抜く・・・それはきっと、悪くない未来でしょう。ですが今は、“何か”などに臆さず、ただ私をお信じ下さい。あなたは女王になるのだ。」つづく