テーマ:ショートショート。(573)
カテゴリ:ショートショート。
みかんの命は短い。
二十日前に大量のみかんを箱入りで購入したT山さんは、どういうわけかその大量購入した時点で持っていた、みかんを食するという情熱を忘れてしまっていた。 彼は、みかんの存在を忘れていた。となると、どうなるか、みなさんはご存知だろう。二十日経って、みかんを買ってきたそのままで放置していたことに気が付いたT山さんも、みかんたちがどういう状態になってしまっているかということを想像した。しかも置いたのは、ストーブで暖かくなる茶の間だった。ああなってそうなってこうなっているんだろうなということが想像できた。しまったなぁ、やっちまったなぁ、どうしようかなぁと思った。 だが、T山さんは、ただの人ではなかった。極端に恐がりな人であった。T山さんは、箱の中のみかんが、ああなってそうなってこうなっているんだろうということは考えたが、二十日経った時点のああなってそうなってこうなった状態に恐怖を感じて、箱を開けることができなかった。まだ今は二十日だが、明日には二十一日経つことになるぞという二つの恐怖をてんびんにかけてみたが、今箱を開ける恐怖の方が勝った。明後日には二十二日経って、十日後には三十日経つぞ、ということも考えたが、今箱を開ける恐怖の方が勝った。 それから一年の月日が流れた。 T山さんは、どうしてもどうしても、みかんの箱を開けることができないまま、ひとつ歳をとってしまっていた。みかんの箱は一年前からずっと、おんなじところで、何ひとつ手を加えられないまま存在していた。その一年、T山さんがどれほどの恐怖を感じながら過ごしてきたか、筆舌に尽くし難い。だが、みかんをそのままにしておいたのは、T山さんの責任だ。だからみかんはT山さんを怒ってよい。 だが、T山さんはその日、ようやくちっぽけな勇気を奮い起こした。自宅の茶の間から、みかんの箱を排除することに決めた。T山さんは、そおっとみかんの箱を抱きかかえて持ち上げた。心配していたのとはうらはらに、箱の外には、何の変化もなかった。T山さんは、なにか怪しいものを隠滅しにいくかのように、その箱を車の後部座席に載せて、暗い夜道を走った。T山さんは、とある丘にやってきた。木のほとんど生えていない、人もあまりやってこない、小さな丘。彼は夜の闇にまぎれて、丘の頂上に箱を置き、そして去った。 夜はどんどん深くなった。星がぎらぎらしてきた。そうして、誰も知らない時間、ひとつの星が丘の頂上にぱりんと堕ちた。 それから数日。T山さんは自宅でぬくぬくとコタツにあたりながら、テレビを観ていた。すると、こんなニュースが流れてきた。 「小さな丘に、突如森が出現!地域住民を騒がせている」 T山さんはびくーん!として、丘へ車を走らせた。丘に着くと、すでに沢山の人々が集まっていた。そして丘の上は、沢山の木々で茂り、グリーングリーンになっていた。そんなグリーングリーンな状態に恐々としながら、T山さんは森の中へ足を踏み入れた。森の中には、沢山の人がいる。親子連れも、老夫婦もいる。どんな人も、この森にやってきていた。そしてどんな人も、木に生っている果実に手を伸ばし、口に運んでいた。「これ、おいしいね!」「すばらしいね!」みな口々に言う。見ると、生っているのは、THEみかん。それも、この世のものとは思えないほど美しく輝き、そして甘い芳香を放つみかんだった。T山さんも、そのみかんに心奪われた。わたしも食べてみたい。衝動は、彼の恐怖心をすべて吹き飛ばした。T山さんはみかんをもぐ。皮をむく。そして食べる。なんとも形容しがたい味だった。空の雲が晴れて、さらに晴れて、晴れて晴れて、昼間なのに宇宙空間が透き通って見えてかつオーロラが全天で踊るようだった。ああ、なんと素晴らしい味!T山さんの頬を熱いものが伝った。 だが、みかんは彼を許してはいなかった。 その日からT山さんは、 「カビッ!」 としか話せなくなった。 「おはよう」 と言われても、 「カビッ!」 「今日は天気がいいですね」 と言われても、 「カビッ!」 「今日の昼飯は何にする?」 と言われても、 「カビッ!」 「あなた、夕食にする、おふろにする、それとも?」 と言われても、 「カビッ!」 だからT山さんは悔いて、その時以来、食後のデザートはすべてみかんにすることに決めた。夏でもみかん。冬でもみかん。T山さんの人生は、みかんのものとなってしまったのだった。ちゃんちゃん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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