テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:国内時事問題
■さて、教科書検定も終了してあちこちで色々あるようですが今日はこんな切り口で考えてみたいと思います。 >疎開船について触れた帝国書院は原本で「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」と記述し、検定意見で「対馬丸のほかに、沈められた疎開船が多数あったかのように誤解するおそれのある表現である」と指摘された。 >これを受け、「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました。このほかにも、沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」と修正された。 >戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した。戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」と話した。 さて、この記事によれば 原記述 「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」 検定意見 「対馬丸のほかに、沈められた疎開船が多数あったかのように誤解するおそれのある表現である」 修正記述 「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました。このほかにも、沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」 と言うことですが、文部省の検定意見は正しいのでしょうか? 対馬丸記念館によれば >この年7月から翌20年3月の最後の疎開までに、沖縄から出航した延べ187隻の疎開船(約8万人)のうち、これほどの民間人が犠牲になったのは対馬丸をおいて他にありません。わたしたちは、対馬丸撃沈事件を過去の歴史的事実だけにとどめておくべきではないと考えます。 (対馬丸記念館・建設理念) とあり、沖縄から出港した疎開船・疎開数の総数は判っているだけで「187隻・約8万人」であると言うことが判ります。 で、記事によれば >戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した。戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」と話した。 としています。 調べたところ >遺族会の調べによると、戦争中、潜水艦による魚雷攻撃や空爆などで沈没した沖縄関係の遭難船舶は二十六隻、県出身の犠牲者はおよそ三千四百人に上る。 (沖縄タイムス 社説 2001.11.30) と、戦時遭難船舶遺族会によれば撃沈され遭難した船舶・疎開者は「26隻・約3400人」であるとされています。 しかし、詳しく見てみると >戦時遭難船舶遺族会(島袋林功会長代行)の資料によると、対馬丸を含め嘉義丸、赤城丸、湖南丸等戦時遭難船舶は二十六隻、犠牲者は三千四百二十七人となっている。以下「戦時遭難船舶」と言う場合は、太平洋戦争中に米軍の攻撃を受けて沖縄近海等で遭難した船舶を呼ぶこととする。 >戦時遭難船舶は、(1)南洋群島から本邦へ引き上げる船舶、(2)沖縄から南九州や台湾へ向かう疎開船、(3)本土から沖縄への帰郷者を乗せ航路の途中で遭難した輸送船の三つに大別される。 (戦時遭難船舶犠牲者の洋上慰霊祭・遺族補償等に関する質問主意書) と言うことで、この数字がイコール疎開船の被害数というわけではないようです。 「参議院議員照屋寛徳君提出戦後処理問題としての戦時遭難船舶犠牲者に関する質問に対する答弁書」にこの「戦時遭難船舶」26隻のデータがありますが ・出港地が沖縄ではないもの。 ・遭難日時が昭和19年7月~昭和20年3月ではないもの。 ・遭難海域が沖縄~南九州・台湾ではないもの。 を除きました。 遭難日時を限ったのは県へ学童疎開に関する通達が出されたのが昭和19年7月でそれ以降学童疎開が開始されて疎開が本格化している事、20年3月以降は本土~沖縄・台湾間の海上交通が途絶したと考えられる為です。 念の為に付け加えますと疎開自体は昭和19年7月以前から行われています。 ■となりました。 次に「戦時下に喪われた日本の商船」で調べますと >昭和18年3月から陸軍の輸送船として鹿児島と那覇を往復していた台中丸は、昭和19年4月12日に奄美大島西方で米潜水艦の雷撃をうけました.老朽化した船体は真っ二つに折れて3分で水没、154名が戦死します. (■0412台中丸) >沖縄の人々の生活に深く密着していた「宮古丸」はその2週間前の8月5日に奄美大島から那覇に向かう航路で撃沈されておりました. (■0805宮古丸) と、残ったのは「開城丸」一隻となりました。 開城丸については資料が少なく、恐らく大阪商船の鹿児島~沖縄間の定期航路を運航中に撃沈されたと推定されます。 が、定期運行中に撃沈されたのか、疎開船として撃沈されたのか、兵員輸送中に撃沈されたのかは不明でした。 ということで、開城丸に対馬丸を足して合計2隻かと思っていたら >疎開輸送は延べ187隻におよんだが海上における犠牲は対馬丸1隻だけであった。 (第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲) >因みに沖縄からの疎開船は昭和19年7月から翌20年3月まで178隻 人員にして約7万人が疎開したが、 >犠牲になったのは 対馬丸のみで、戦時中は勿論 軍側の絶対秘密として公表されることはなく、この悲痛 >なできごとを関係者以外の人々が知るようになったのは昭和37~8年になってからである。 (疎開船対馬丸 1) あれま・・・(汗) と、とりあえず2隻で計算してみますと喪失率1.06%!・・・orz どうも >「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」 と書くには明らかに間違いのようですね。 しかし、前述のように昭和19年7月以前の疎開についても船舶の遭難被害が出ていることは事実ですので修正後の >「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました。このほかにも、沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」 であればまぁ完全な間違いではないわけですが「多くの」と言う形容詞が適切かどうかは個人的には疑問です。 参考リンク ・戦時下に喪われた日本の商船 ・なつかしい日本の汽船 ・第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲 ・第5部 特別攻撃隊と学徒動員 ・対馬丸記念館 ・疎開船対馬丸 1 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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