テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:「バカの壁」シリーズ
~海軍慰安所の真実~ ■いやもうだからさぁ・・・。 >どなたか「海軍」には従軍慰安婦はないといってましたが、「海軍」にも慰安所が設置されてたのが事実のようですね。 ・・・(゚Д゚ )ハァ? まさか耄碌したんですか? 耄碌したんなら老害を垂れ流す前に-もう遅いかもしれませんが-潔く議員を辞めるべきですし、寝言なら寝てから言ってください。 さて、この共産党員は恐らく >馬公の遊郭は、城内の北のはずれにあり、そこには「海軍御用」という看板をかけた店が20軒ばかりずらっと並んでいました。 >馬公市庁で娼妓の鑑札をもらい、名実共に奴隷の生活が始まりました。 >鑑札をもらうとき、海軍の軍人に病気を移すと大変だというので、検査をされました。検査は軍医がしていました。 と言う部分をもって >どなたか「海軍」には従軍慰安婦はないといってましたが、「海軍」にも慰安所が設置されてたのが事実のようですね。 と断言しますが、ハッキリ言えば有り得ません。 また彼が引用している「マリヤの讃歌」の本文からもそう断言できる部分はありません。 本文には >そのうち台湾に行かないかとの話でまだ17歳の若さで台湾澎湖島、馬公の常盤楼に行きました。 >馬公の遊郭は、城内の北のはずれにあり、そこには「海軍御用」という看板をかけた店が20軒ばかりずらっと並んでいました。 >馬公市庁で娼妓の鑑札をもらい、名実共に奴隷の生活が始まりました。 >鑑札をもらうとき、海軍の軍人に病気を移すと大変だというので、検査をされました。検査は軍医がしていました。 とあります。 まず >そのうち台湾に行かないかとの話でまだ17歳の若さで台湾澎湖島、馬公の常盤楼に行きました。 「馬公の常盤楼」と言う民間の料亭か遊郭に行ったと言うことですね。 馬公とは馴染みのない地名ですが場所から見てみましょう。 ダイナスティーホリデーの「知ってる?台湾」より。 出所不明 馬公には明治時代から「馬公要港部」があり、昭和16年に「馬公警備府」に改称され開戦当時は「馬公海軍港務部」「馬公海軍通信隊」「馬公防備隊」「第44~46掃海隊」が配備されていました。 昭和18年以降は「高雄警備府」と改称され警備府は台湾高雄に移り、終戦時に馬公には高雄警備府管下「馬公方面特別根拠地隊」がありました。 ちなみに「要港部」とは、海軍の戦略上必要な港や経済的に重要な港湾を「要港」と言い、その要港に置かれた海軍の役所の事です。 当初は「軍港」におかれた「鎮守府」の支所的役割を担っていたが、昭和16年に「鎮守府」とほぼ同列の「警備府」に昇格しています。 要港部・警備府の設置された港は時期により変動がありますが主に大阪、大湊、馬公、鎮海、旅順、舞鶴、海南島などに設置されました。 鎮守府は1876年(明治9)に東海・西海両鎮守府を横浜・長崎に設置したのを初めとする。 1889年横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4鎮守府に再編され,各管区を定め海上警衛にあたった。旅順・鎮海(朝鮮)が増設された時期もある。第二次世界大戦後廃止された。 一応分類すれば ・鎮守府=横須賀・呉・佐世保・舞鶴・旅順・鎮海 ・警備府=大湊・大阪・鎮海・旅順・海南・馬公→高雄 ・要港部=竹敷・大連湾・馬公・大湊・旅順・青島・鎮海・舞鶴 となります。 重複しているのは時代によって異なるからです。 まぁ、海軍の要港部や警備府があると言うことは海軍艦艇も頻繁に入港してくるでしょうし警備府の軍人用の料亭や遊郭があっても不思議ではありません。 >馬公の遊郭は、城内の北のはずれにあり、そこには「海軍御用」という看板をかけた店が20軒ばかりずらっと並んでいました。 有名な海軍御用のレスと言えばパインとフィッシュにロック(分からない人は「参拾壱 頁」の「コトバ」で調べてください。)ですが、「海軍御用」という看板が掛けてあるだけで「海軍」にも慰安所が設置されてたのが事実とされてはたまりませんねぇ。 そうなると、陸軍御用の「菊正宗」、海軍御用の「剣菱」と言われていますが軍隊が酒を造っていた訳ではありませんし、前述のパインとフィッシュにロックも「海軍御用」ですが海軍が経営していたわけではありませんし「海軍」に料亭が設置されてたのが事実とは言えません。 まぁ言ってみれば「宮内省御用達」の看板と同じと言うことですね。 >馬公市庁で娼妓の鑑札をもらい、名実共に奴隷の生活が始まりました。 馬公市庁で娼妓の鑑札を貰ったというあたりがどう考えても民間の遊郭と思わせるわけですが・・・。 と、ここで一つ上記とこの文章と見比べて貰いたいわけですが >着いた翌日、楼主とともに馬公市庁に娼妓の鑑札をもらいに行った。「親の承諾書や、戸籍謄本をもっていって鑑札をもらい、名実ともに奴隷の生活が始まりしまた」と城田さんは言う。 (ようこそパルーシアへ) 共に同じ本を題材としていますが、見比べると千茶庵氏の引用は見事に「親の承諾書や、戸籍謄本をもっていって」と言う証言者の事情がトリミングされているんですね。 しかも、そのHPによれば >それから不幸な歩みが始まった。親戚が借金した時、父は店を担保に保証人となったが、保証倒れとなり、店を失い、城田さんは遊郭に売られた。 >たびたび城田さんのところに金を借りに来る父に、城田さんは自分の借金がふくらんでいくことを知らず、客がくれた祝儀をためて、父に渡していたそうです。借金はふえつづける一方であった。 >あまり増えた借金のために、彼女はやむなく植民地下の台湾にある遊郭に行くことを承知しなければならなかった。 と、親の借金のために遊郭に売られ、これまた親の借金のために台湾に行ったと記されていますが、千茶庵氏の方には何ら言及がありません。 >鑑札をもらうとき、海軍の軍人に病気を移すと大変だというので、検査をされました。検査は軍医がしていました。 とあるわけですが、前述のHPには >鑑札をもらう前、海軍の軍人に病気をうつしてはいけないと、膣の検査をされた。はじめてのことで足ががたがたふるえた。 と軍医の存在は書かれていません。 まぁ、馬公支庁に医者がいるとは思えませんし当時の台湾事情を考えれば馬公に町医者があったとも思えません。 記録によれば馬公要港部に「馬公海軍病院」があったとありますから海軍の軍人が主に使う遊郭の娼妓の検査であれば海軍の軍医に頼むのもある意味当然と思えます。 主だった反論は当該日記にコメントにしましたが、第一点に「当時は公娼制度があった」と言うことですね。 本文にも >1800円の借金で横浜の「芸娼妓周旋業大和屋」に行きました。 とあります。 「芸娼妓」とは「芸妓と娼妓。芸者や遊女」の事であり「周旋業」とは難しく言えば「他の者のために商行為以外の行為の媒介、代理、取次ぎ等を行う事業」で、簡単に言えば「売買を成約させるため、売主と買主それぞれに口入れをし、世話をする仕事」と言うことになります。 まぁ至極簡単に言えば「売春の斡旋業」と言うことになるんでしょうかね。 で、民間にこう言う人たちがいて公娼制度があるのですから、民間業者に渡航許可と営業許可を与え、戦地であれば軍が施設の便宜を与えて適宜衛生面を管理し業者による搾取を監視をするだけで良いわけです。 にもかかわらずわざわざ軍が-敢えてこの語を使いますが-「従軍慰安婦」を募集して「軍直営慰安所」を開設する意味などないのです。 しかしまぁ共産党大東市議団の隠蔽体質は今世間を騒がせているJR西日本以上のものがあります。 特に酷いのは今回も以前も取り上げた千秋昌弘大東市議の「千茶庵の日日草」ですが、お仲間の古崎勉市議の「大東市会議員ーこざき勉」も目に余るものがあります。 特に南京大虐殺に関する日記「★「南京大虐殺」」で彼の日記に対する反論を書いたところ彼から反論があり、再反論したところバッサリ削除されると言うこともありました。 またお仲間の豊芦勝子市議の緑・文化・歴史・育むまちでも私のコメントが削除されています。 選挙民は見ているぞ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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