テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:国内時事問題
■まぁなんつーか一向に思考回路が進化しないですね。 とりあえずその前島の位置でも確認してみましょうか。 Yahoo!地図情報 - 沖縄県渡嘉敷村(島尻郡)前島の周辺地図 ・・・無防備と言うより無視と表現した方が適切かも知れませんね。 見れば分かりますが地理的にこれと言って特徴のない島です。 例えば同じ慶良間諸島でも隣りの座間味島や渡嘉敷島は一般的に地形が急峻で飛行場の設定は不可能であるが、諸島が環状になっているので内海は波浪を防ぐのに好適な泊地を形成している為、艦船の補給や修理用の泊地としては最適である。 逆に反対側を見れば沖縄本島から10kmと離れていない神山島は砲兵陣地に利用できる-米軍の野戦重砲である155mm加農砲M2「ロングトム」なら射程23km-のでまぁ言ってみれば前島はエアーポケットのような島です。 実際に米軍の沖縄侵攻は3月26日の慶良間諸島上陸から始まり、本島上陸前日の3月31日0800には神山島-日本側配兵なし-に上陸を開始し夕刻には同島に砲兵二個大隊-155mm加農砲24門-を推進し那覇・小禄方面を射程に収めると共に射撃-この神山島の砲兵陣地は首里に司令部を置き主抵抗線を形成している第32軍にとっては非常に目障りであった為に度々夜襲をかけている-を開始します。 そして運命の4月1日の沖縄本島上陸を迎えるわけです。 そして今回もいつもの如くどうでもいい方向に話が行くわけですがw 今回は沖縄本島の話はおいておいて今回は慶良間列島の話です。 慶良間列島の戦いのみならず、沖縄戦を語る上で必ず語られるのが「軍命令による集団自決」ですね。 特に渡嘉敷島に配備されていた海上挺進第3戦隊の赤松嘉次大尉は同島民約400名に自決命令を下したとして「鉄の暴風」(沖縄タイムス社)に書かれた為に、この「鉄の暴風」が誤った既述や語弊、誤謬、伝聞、体験談などが虚実混沌としたまま沖縄戦のバイブルとして扱われた為にこれを参考にした沖縄県史-特に8・9巻-や各書籍に引用され、「神話」となったわけです。 結論から言えば慶良間列島の集団自決は軍命令によるものではなく自然発生的なものであったと言うことになります。 当時慶良間列島には 座間味島 ・海上挺進第1戦隊(球16777) 指揮官梅澤裕少佐 ・海上挺進基地第1大隊(暁16788) 指揮官小澤義廣少佐 →20.2.17臨時独立第1大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第103中隊(球8886) 指揮官市川武雄中尉 第二・第三小隊欠、将校・下士官・兵40名、朝鮮人軍夫約300名 阿嘉島 ・海上挺進第2戦隊(球16778) 指揮官野田義彦少佐 ・海上挺進基地第2大隊(暁16789) 指揮官古賀宗市少佐 →20.2.17臨時独立第2大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第***中隊(資料不足にて不明) 渡嘉敷島 ・海上挺進第3戦隊(球16779) 指揮官赤松嘉次大尉 ・海上挺進基地第3大隊(暁16790) 指揮官鈴木常良少佐 →20.2.17臨時独立第3大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第104中隊(球8887) 指揮官中山忠中尉 一個小隊-将校・下士官・兵13名、朝鮮人軍夫210名-のみ配備。 と言う部隊が配備されていました。 「海上挺身戦隊」というのは簡単に言えば陸軍の「○レ」(マルレ)という特攻モーターボート部隊で「海上挺身基地大隊」と言うのはそれの支援部隊です。 海上挺進戦隊は戦隊長以下104名とマルレ艇100隻からなり、各部隊は 海上挺身戦隊(球16777~9) 戦隊本部 11名(10隻) 第一中隊 中隊本部 4名(3隻) 第一群 9名(9隻) 第二群 9名(9隻) 第三群 9名(9隻) 第二中隊 第三中隊 と編成されていました。 戦術単位は一個戦隊、戦闘単位は一個中隊とし一コ群を行動の最小単位と定めていました。 見れば分かるように各艇乗員一名ですが、戦隊長及び各中隊長艇のみ複座の指揮艇で、装備としては機関短銃9挺-資料によっては4挺の説あり-に拳銃・軍刀・手榴弾などを装備していたようです。 海上挺身基地大隊については手元の資料が少ないので編成の詳細は判明しませんが勤務隊と整備中隊などからなり、兵力は約1000~900名であったと推測されます。 しかし、昭和19年11月に沖縄の第32軍から第9師団の台湾抽出が決定し翌年1月までに移転を完了、補充として本土から送られてくるはずの第84師団も一旦は派遣が決定したものの、本土決戦用兵力不足や海上輸送の危険性などから派遣中止となりました。 この為、沖縄本島の防備兵力不足と言う事態を招き第32軍は昭和20年2月12日に海上挺進基地大隊を特攻作戦上絶対必要な最少人員以外の勤務隊を主力として兵力を歩兵大隊に準じて独立大隊として編成し本島に抽出する事を決定しました。 作戦上必要と判断された勤務隊の一部と整備中隊主力は残置され海上挺身戦隊の指揮下に入り、また作業援助要員として本島から特設水上勤務中隊が来島し戦隊の指揮下に入った。 また島民の一般協力や防衛召集による防衛隊編成-集団自決用の手榴弾は防衛隊などの手から住民に配られたケースもある-など増強措置も執られたようです。 これらの部隊編成は 海上挺身基地大隊残置部隊 勤務隊(約150~200名程度?) 整備中隊(約50名程度?) 人員 合計で約200~250名 装備 重機関銃2 軽機関銃5 小銃約200 擲弾筒2 無線機 特設水上勤務中隊 第一小隊 第一分隊 第二分隊 第三分隊 第二小隊 第三小隊 人員 将校・下士官・兵 計40名 朝鮮人軍夫約250~300名 装備 小銃約40(朝鮮人軍夫は非武装) であったと推測されます。 各島の配備人員には差があるので員数については参考程度に願います。 なお、慶良間列島で編成した三個臨時独立大隊は沖縄本島で各兵団に配属され第一線部隊として配備されたが、編成上は歩兵大隊に準ずるものの充分な訓練期間もなく装備も小銃を中心としたものであった為苦戦したと言われています。 昭和49年に刊行された沖縄県史第10巻(沖縄県教育委員会編)では「鉄の暴風」以降の論旨を基本的に踏襲しているものも多く、○レ艇の出撃中止・自沈命令-暗にこれが集団自決を招いたと言いたいのであろうか?-に関して戦隊長であった赤松大尉の責としていますがこれは事実ではなく、偶然にも米軍上陸時に戦備視察の為に来島中であった第11船舶団長(軍船舶隊長)大町茂大佐の指導と命令によるものでした。 むしろ赤松戦隊長はこの機を逃さず戦隊全力をもって来航した米軍艦艇への出撃を意見具申しています。 沖縄の多くの書籍にはこの出撃回避を赤松戦隊長の怯懦に起因しているという記述があるそうですがこれは軍隊に対する全く不見識と言うほかありません。 軍隊という組織にあっては上官の命令には例え個人的に反対であっても、命令を遵守することが軍紀維持の根幹であり生命であるからですね。 軍事研究2005年3月号によれば ■ここにもあるように特攻艇の運用に際しては企図の秘匿を絶対的最重要事とし、特攻艇の出撃は軍司令官の決定により軍船舶隊長が命令し戦隊長が実行すると厳重に決められていました。 目の前に敵が居ながら軍からの出撃命令なく出撃できない戦隊長の苦悩は如何ばかりか、結果的に全特攻艇の1/3を慶良間に集結させていながら全く戦果を挙げることなく全艇を自沈させる事になった訳ですが、上が現場の手足を縛るとどうなるかという好例のような気もします。 字数の関係でその2へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.06.30 14:58:47
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