テーマ:戦争反対(1190)
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その1から続き
さて前述のように船舶団長大町大佐は作戦指導の為に慶良間諸島を訪れます。 22日に那覇を発ち23日は座間味島、続いて24~5日にかけて阿嘉島の舟艇秘匿壕や訓練状況を視察指導したが、慶良間諸島への空襲は23日以来激しさを増し25日には猛烈な艦砲射撃を受けるに至った。 大町大佐は25日夜、阿嘉島から渡嘉敷島に移動し海上挺進第3戦隊(以後赤松隊)を指導したあと26日2330沖縄本島へ帰還の為出発したが途中遭難戦死したとされています。 一方渡嘉敷島の赤松隊は船舶団長の視察に備えて準備を行っていたところ23日正午過ぎより空襲を受け日没までに集落は全滅し、全頭至る所に山火事が発生した。 24日も早朝から艦載機が来襲し、赤松戦隊長は軍司令部より「甲号戦備を-戦闘配備につき臨戦状態を-整えよ、米機動部隊は首里基点160度(南東)50哩の基点に接近しあるものの如し」と言う連絡を受けとった。 25日には空襲に続いて艦砲射撃を受けるに至って敵の本格来襲と判断し2000頃赤松隊長は出撃命令に迅速に対応できるよう独断で各中隊に部隊の1/3を泛水させると共に軍司令部に状況を報告し今後の処置について問い合わせた。 すると25日夜-2130頃?-に軍及び船舶隊本部より「敵情判断不明、状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」と言う命令を受けとった。 なお船舶特幹一期生会報第二号によれば「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は状況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし」と言う命令であったとされている。 命令を受領した戦隊長は各中隊長・群長と検討した結果、本島への全力転進を決め2200時に戦隊本部及び第二・三中隊に全艇の泛水を命じた。 但し阿波連基地の第一中隊は2200頃湾内に敵駆逐艦が進入した為泛水不可能となる。 船舶隊長大町大佐が赤松戦隊の司令部に到着したのは2400頃-2200頃に本部に到着していたという説あり-であったとされている。 この大町大佐の到着により赤松隊の運命は一変するのである。 書きかけ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.06.30 15:04:41
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