テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:「バカの壁」シリーズ
~中国『遺棄』化学兵器問題再々々考~ なんとなくその2からの続き。 で、まだまだまだ妄言は続きます。 ■もうバカも休み休み言えと繰り返し言っているわけですが >同様に毒ガス兵器を引き渡したとする復員資料や元兵士の証言が少なくとも一件くらいは持ち出されても良さそうですが、全く存在しないのは何故でしょう。 えー国が事実関係を争ってないからだボケと何度言えば理解できるんでしょうか。 >日中どちらに証明責任があるかと言う事では在りません。しっかりした証拠を探さないと控訴審で国側が勝てないのです。困るのは某S氏さんでしょう。だから「ソ連製云々」では某S氏さんは頭が下がるのでしょう。 立証責任-彼女は説明責任と言っていますが「説明責任(accountability)」と「挙証責任」は全く別物です、根本的に挙証責任を理解していない証拠ですね-などどうでもいいと言っていますが、そりゃ >私は、残存する毒ガス兵器を日本が責任を持って処理するのは、倫理的にきわめて当然のことと思います。 つまり「残存する毒ガス兵器を日本が責任を持って処理するのは、倫理的にきわめて当然=日本が処理義務を持つのは遺棄化学兵器のみ=全て遺棄化学兵器」と言う考え方だったら挙証責任などどうでもいいことです。 なぜなら日本が遺棄したものと決定しているからですね。 >困るのは某S氏さんでしょう。だから「ソ連製云々」では某S氏さんは頭が下がるのでしょう。 (゚Д゚ )ハァ? 意味不明ですね、なんで国が負けて私が困るんでしょうか? >日本の各地でも遺棄毒ガス兵器による被害が相次いでいます。判決文中にもあります。某S氏さんの理屈によれば、これらは米軍に引き渡され後米軍が日本のあちこちに埋めた事になります。有り得ないですね。勿論米軍が海洋投棄した例はありますが。 日本語として変ですね。 特にこの部分 >某S氏さんの理屈によれば、これらは米軍に引き渡され後米軍が日本のあちこちに埋めた事になります。 >有り得ないですね。 >勿論米軍が海洋投棄した例はありますが。 分かりやすいように改行してみました。 文章の1行目で「米軍に引き渡され後米軍が日本のあちこちに埋めた」と言い、2行目で「有り得ない」と否定し三行目で「勿論米軍が海洋投棄した例はある」と言います。 私が >で、海洋投棄して陸上に投棄しないという根拠を聞かせて欲しいもんだな。 と突っ込んだところ >質問の意味が分からないけど、敗戦や武装解除に関係なく不用毒ガスの処理方法は海洋投棄か地中深くと決められていた。そうです。 (Re:カス頭・・・(07/15)・2005年07月26日 13時11分57秒) と言っています。 と言うことは日本軍が遺棄した可能性もあるし接収した米軍が海中だけではなく陸上にも遺棄した可能性もあるわけですね。 現に大久野島では約65万個の「赤筒」が1946年に島内27カ所の防空壕にを入れられ入り口を鉄筋とセメントで密封し、さらし粉と海水の注入によって中和されました。 毒ガス島歴史研究所にある帝人社史によれば >クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ-トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理を終わった。 (「大久野島に残されたていた毒ガスの戦後処理はどのようにおこなわれたのでしょうか。」より) とあるそうです。 そして ■とこう言う事例もあるわけで、陸上で見つかったからと言って安直に日本軍が遺棄したと決めつけるのは危険と言うことです。 しかしまぁ1行目で肯定し、2行目で否定して、三行目でまた肯定する。 彼女の特徴とも言える悪文の見本とも言える文章ですね。 >台湾陸軍兵器補給廠高雄分廠で「大あか筒100本、小あか筒2250本」引き渡した目録があります。確かに引渡しが行われた所もあった様です。しかし台湾は戦闘も無く日本の国内と同じですから、大陸とは状況が異なっており、同様のことが大陸であったと推論するのは無理があります。 え~ >台湾陸軍兵器補給廠高雄分廠で「大あか筒100本、小あか筒2250本」引き渡した目録があります。確かに引渡しが行われた所もあった様です。 そんな事は我々は最初から言ってきたわけで。 >しかし台湾は戦闘も無く日本の国内と同じですから、大陸とは状況が異なっており、同様のことが大陸であったと推論するのは無理があります。 まぁ物を知らないとは恐ろしいことです。 彼女は全く大陸の戦闘を理解していませんね。 大陸の日本軍は国民党軍や共産党軍相手に連戦連勝で、もう南方との交通路も遮断され敗色濃厚な1944(昭和19)年4月には参加兵力約41万人、自動車一万二千両、馬匹六万七千頭、作戦距離なんと約2000Kmという支那事変以来の大作戦である一号作戦(通称:大陸打通作戦)をやってのけています。 しかもそれが成功したけど効果がほとんどなかったもんだから調子に乗ってもう戦局は絶望的になった1945年1月末には老河口/蕋江作戦作戦なんかもやっています。 が、しかし戦局の悪化はいかんともしがたく >岡村総司令官は、従来の西向き戦面を東向きに大転換することには反対であり、四川進攻作戦実施について >大本営に意見具申を行ったが、大本営はこれを認可せず、 >昭和20年1月22日 『支那派遣軍の基本任務は対米作戦を主務とする』と新任務を発令した。 > >昭和20年1月29日 南京で軍司令官合同を実施し軍総軍命令を下達した。 > > 1) 第23軍は、3月末までに東南中国沿岸(2個師団増強)に防衛準備を完整 > 2) 第13軍は、初夏までに揚子江下流の上海・杭州地区に防衛準備 > 3) 北支方面軍は、初夏までに山東半島方面の防衛準備 > >支那派遣軍は6月『対米作戦計画大綱』を定め、対米、対ソ作戦準備への全面的転換を開始した。 > >米軍の上陸を香港・広東地区、揚子江下流、青島半島等に予想し、 >対米戦態勢を造ることを主眼とし、支那軍に対しては思いきって戦面を縮小しようとするものであった。 >(在中国米軍は、6月から広西省西部に攻勢をとり、10月ごろ、広東、香港を奪還する計画であった。) > >また対ソ戦備としては、従来の関東軍担任地域の1部を北支方面軍が担任し、関東軍に策応しようとするものであった。 > >しかし敵の制空権下において追撃や妨害を受けながら、広大なる支那大陸での態勢の転換には非常な時間を必要とし、 >終戦時、なお多くの部隊が転戦途中の浮動の態勢であった。 (戦史 一号作戦/老河口・蕋江作戦3) とまぁ対米戦に備えて戦線を縮小しています。 終戦間際に対米戦のために戦線を縮小したが、それも関東軍のような「敗走」ではなく、あくまで軍として建制を保った「撤退」であり実際に支那派遣軍100万は健在でした。 ですから繰り返し言っているように支那派遣軍はほとんど負けていないと言っても過言ではありません。 だから終戦まで意気軒昂、8月12日以降政府がポツダム宣言受託するという伝聞するや「全軍玉砕を賭して断固戦争目的の完遂に邁進すべし」(半藤一利著・日本のいちばん長い日・P100)と言う「なんで我々支那派遣軍100万は負けてないのに降伏するんだ」と言わんばかりのかなり過激な徹底抗戦電文を大本営に送りつけているし、伊藤正徳氏の著書「帝国陸軍の最後5」には >日本陸軍は8年間の中国遠征中、55回戦い、51勝1敗3引き分けと言う無類の勝率をあげた と書かれている。 その4へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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