ハイジン
禁煙ほど簡単なものはないネ、おれなど何回やったかしれない、という人口に膾炙した小話がある。俳句入門のカンタンなこと、禁煙と同様だな。結城昌治の「俳句は下手でかまわない」(朝日文芸文庫)をふくめて7冊の俳句入門書を読了した。通信教育の俳句入門コースに申し込んだこともある。最初の課題が「春」だった。 菜の花やあの世とやらのなつかしき とひりだして送れば、講師が、菜の花をみてなぜあの世が出てくるのかわからぬという。わたしに感じられることがかれに理解できないというのは、かれの側に感性が足りないからだろう。そう考えてすぐに退会した。受講料を振り込んだ後だったから、一句の添削料にしては高くついたことになる。案内書には「講師の批評は素直に受け容れることが上達の秘訣です」とあったのだが。 音楽漂う岸おかしゆく蛇の飢え 赤尾兜子 学生のころに某教員が好きな句としてあげた一句である。そのイメージの鮮やかさに驚嘆した。 かすみ立つ山を漂う授業中 やはり漂っているが、こちらはわたしの中学時代の5,7,5。ヒドイというより無残だな。兜の下のきりぎりすだ。こんなものを自作と並べられて兜子も心外だろう。彼我の隔たりの大きさを示すためにあえてやりました。ゴメンナサイ。 以前、ある俳人に「俳人とはなるものか、あるものか」と訊ねたことがあった。兜子の句をみても(あるいは我が「句」を改めてつきつけられると)、俳句の才はどうやら天性のものである。 寺山修司は歌をつくるときに「さて、ことばを地獄にかけるか」とうそぶいていたそうだ。俳句はさらに短い詩形である。無数のことばが斬り捨てられ、地獄にかかるのに違いない。ときに一句の中心に据えたことばを捨てる場合もあるはずだ。そうやって本質のみをつかみだす訓練を重ねるうちに、作家はものごとに動じなくもなるのだろう。 時実新子がどこかに書いていた話だが、片足を切断した川柳作家がいた。ある日かれを見舞うと、寝台の上で考え込んでいる。さすがにショックを隠せぬかと胸がつまった。だがかれは、現在の自分の状況をどう詠むかで悶々としていたのである。 西東三鬼が句作の気分転換に釣りをやってみたところ、これがすこぶるおもしろい。押っ取り刀で師匠である山口誓子の家へ出向き、釣りを勧めた。朝から晩まで俳句をつくっているという噂が誓子にはあって、他の俳人たちを「不愉快にさせていた」からである。口を極めて釣りを勧める三鬼に誓子の答えて曰く『なるほど釣りはおもしろかろう。だが釣りをしている間に、わたしの生涯の傑作が通り過ぎてしまったらどうしますアナタ』。 これは、「西東三鬼読本」(角川書店)にあった話。 むかし、俳句を貶めて第二芸術だと言った男があった。わたしのようなものでも一句作ってみようという誘惑に勝てない。ましてや男は文筆家である。いちども句作を試みたことがないとは考えにくい。某夜、軽い気持ちで5,7,5にとりかかったかれは、己がついに散文しか書けぬことを知る。愕然としたに違いない。