|
カテゴリ:映画
〈ワンピースとジョニー・ディップ〉ごまめの歯ぎしり ブログ版
http://www.taro.org/2010/07/post-789.php メルマガを読んで、久しぶりに、何言ってるんだ?と思ったので、一言書かせていただく。 ハリウッドが日本のアニメに脅威を感じたのは、いまにはじまったことではない。 ウォルト・ディズニーが、日本のアニメのように水を表現できない自分に苛立ちを感じていたという逸話は有名な話だ。 どこの国でもそうだが、各国の映像作品の下地には、その国の風土が育てた物語がある。 ただし、各作品の製作者たちが作品に投入できるイメージは、育つ過程で身に付いた世界観に他ならない。 アメリカのインディーズ映画には、アメリカ建国前の先住民の物語が下敷きにされているのをよく感じる。 そういうものをきちんと見ると、面白いのですよ。 建国200年ちょっとの借物の文化を寄せ集めた人たちが作る映画に込められた感動は、まるで、アメリカにはこのような強大な力が備わっていて、だからこそ世界を守ることができるという、実際には現実と乖離した。アメリカの代表者たち(政治家とか財界人とか)が喜びそうな夢でしかない。 日本のアニメが、世界を席捲したかに見えるのは、そのアニメを受容する人種の増加だと思う。 現代人、特に先進国の多くの人口は、直接誰かと刃を交えなくとも、とりあえず、なんらかの手段で生きていける。 しかし、人間として生きていくことにさしたる<理由>を感じられない空しさを、何かに投影せずに居られないと感じる人は少なくないのではないか。 アニメーションや漫画に代表される線画の世界には、台詞とそれを発する画像の間に大きな隙間がある。 何しろ、アニメのキャラクターは、画面の中では動いても、実体は、描かれた線画と音声の合成でしかないのだ。 その不確かな存在に、鮮烈な魂を感じた時、若者たち、あるいは、いまの汚れた世界に、大人としての自分を見つけられない、自分を人間と感じきれない者たちが、囚われたところで不思議は無い。 そして、彼らは、その架空の世界を、自分の身体で表現してみたり(コスプレ=キャラクターの衣装を自ら身に纏うことでアニメ等のキャラクターに成り切ること)、架空の世界を通して、現実の自分とは違う力、しかも、他人を傷つけない力を行使することに、喜びを見出している。 例え、ジョニー・ディップのジャック・スパロウ船長がどんなにかっこよくても、彼(俳優)は、実在するのだし、私達一般人が、格好だけ真似しても、それは、単なる仮装にしかならない。 彼らアニメファンは、仮装大会に出場したいのではなく、自分の身体を使って、理想の自分の姿をこの世界に描きたいのだ。 そのイマジネーションを与える力を、日本のアニメや漫画が持っているということに、気づいていないのは、日本人の大人だけだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年07月23日 20時25分55秒
[映画] カテゴリの最新記事
|