|
テーマ:介護・看護・喪失(5318)
カテゴリ:母のこと・介護
1月10日 午後10時53分、母が急逝しました。 肺炎をきっかけとした、急性心不全でした。 母や私をずっと心配し、励まし続けて下さった皆さん、本当に有難うございました。 この日の午前中に病院に行った時は、特段変わった様子はないように思えたのですが、今思うと、呼びかけに反応はするものの全身に力がなく、すぐに眠ってしまう状態でした。 肺炎が母を襲い始めていたのでしょう。 そうとは知らない私は、軽い入浴程度で落ち切らない足の裏や指の間の垢をムキになって取って、眠った母に声をかけずに帰りました。 ところが、午後2時頃、病院から電話が入りました。 熱が高く、呼吸が不規則なので、すぐに来るようにとのこと。 病院に着くと、ナースステーション近くの病室に移っており、酸素マスクを装着していました。 呼吸は確かに不規則で浅く、熱が相当高いのか、びっしょりと汗をかいていました。 目は半開きで、呼びかけても反応はありません。 心拍数は、通常の半分以下(30~50ぐらい)に落ちていました。 あまりにも突然のことに、呆然となりました。 レントゲン写真を見ると、肺の下部が白くなっており、心臓も大きくなっています。 どちらか片方でも辛いのに、ダブルでした。 先生からは、「非常に厳しい状態で、今夜もつかどうか・・・」と、言われました。 寝たきり患者に、肺炎は命取りです。 以前、私が全幅の信頼を置いていたFドクターが何度も言っていたことです。 持ち直して欲しいと願いながらも、とうとうこの日が来たか、と覚悟もしました。 夕方になってから一度帰宅し、親戚に急変の連絡を入れました。 暫くすると、携帯電話からラヴェルの「ボレロ」の曲が流れました。 母が好きな曲で、病院専用の着メロです。 不整脈が起き、一時はいつ心臓が止まってもおかしくない状態に陥ったとのこと。 今は持ち直したけれど、同じ状況になれば、すぐに連絡を入れるとのことでした。 無理矢理に食事を摂っていた夜6時半頃、またボレロが鳴りました。 出ると、夜勤シフトに入った、私が最も仲のいいM看護師でした。 「ついさっき、一回呼吸が止まったから来て!」 電話の向こうから、心電計の異常を知らせるアラームが鳴り響いていました。 慌てて行くと、呼吸はかろうじて回復していましたが、相変わらず浅く不規則でした。 また、抗生物質等の点滴をしているにも拘らず排尿がなく、血圧も測れないとのこと。 最早、心臓も腎臓も、ちゃんと機能していない状態でした。 心電計のアラームが鳴っては止まりの繰り返しで、Mさんが、 「胸を軽く叩くだけで、心拍が上がることが多いから」 と、何度か叩いてくれ、私もその後何度か叩きました。 そのせいか、心拍数は悪いなりに50ほどで安定し始めました。 「ごめんな、ビックリしたやろ。私が母の最期に間に合えへんかったから、Nishikoさんにはそんな思いをさせたくないと思って電話してん」 Mさんが謝るので、私は感謝していると答えました。 再び家に戻り、ずっと母を心配してくれていた人達に現状を伝えました。 最悪の場合に備えて最寄りの葬祭場を調べ、受け入れてもらえるかどうかも尋ねました。 そして夜9時頃、母の弟2人が病院に様子を見に行きたいと言うので、Mさんに連絡し、守衛さんに扉を開けてもらえるようお願いしました。 その時には、心拍は80~90で安定しているとのことで、少し安心していました。 ところが、夜11時前、またボレロが鳴り響きました。 「心拍が19にまで落ちたから、すぐに来て!!」 Mさんが叫びました。 車で病院まで2分ほど、病院玄関から病室まで2分ほど、5分もあれば着く距離です。 ところが、前にノロノロした車がいて、数分のロスが出ました。 病室に駆け込むと、母はもう息を引き取っていました。 ベッドの傍らには、母の弟2人と、お嫁さん、そしてMさんの4人がいました。 まるで、弟達の到着を待っていたかのように、急激に心拍が落ちたといいます。 まさかここまでになるとは思わなかったMさんは、もっと早くに連絡すれば良かったと、私に何度も謝りました。 確かに、看取れなかったのは残念です。 でも、母は一人寂しく逝ったのではありません。 血の繋がった弟達が、ちゃんと傍らにいてくれました。 それに、2年2ヶ月前に脳幹出血で倒れた時も苦しかったでしょうが、この肺炎は本当に辛かったはずです。 それが半日で終わった。 長く苦しむことを思えば、これは幸いだったのではないかと思うのです。 母の顔は、安らかでした。 ベッド脇で号泣する私に、Mさんとヘルパーさんは長い時間をくれました。 少し落ち着くと、ヘルパーさんが母の体を拭ってくれるというので、病室を出ました。 母のすぐ下の弟が、通夜は何処でするのかと聞いてきたので、私は数時間前に電話をした葬祭場へ連絡を入れ、迎えに来てくれるよう頼みました。 本来なら一度、連れて帰ってあげる方が良いのでしょうが、自宅はとてもそんな状態ではありませんでした。 そして、霊安室に移る前に寝台車が到着したため、母はそのまま葬祭場へ移動しました。 翌11日が通夜、12日が告別式となり、母と永遠にお別れすることになりました。 お母さん、しんどかったね。 本当によく頑張ったね。 ゆっくり休んでね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|