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テーマ:介護・看護・喪失(5318)
カテゴリ:母のこと・介護
10日の夜に母を亡くし、11日に日付が変わった頃に、母の遺体と一緒に葬祭場へ。 それから朝まで、伯父達も同席してスタッフと打ち合わせでした。 喪主は、私です。 我が家の担当者は、その葬祭場の店長Kさんで、これが私にとっては幸運でした。 Kさんは、体裁や瑣末なことに拘る伯父(母のすぐ下の弟)と意見がぶつかる私の味方をしてくれたのです。 "あの親戚には連絡するな"と言い出したかと思えば、別の親戚には異常なまでに気を遣う伯父。 自分の両親(私の祖父母)を喪主として送ったことから、その知識や経験を語りたいのでしょう、やたらと口を挟んでくるのです。 「誰の葬式で、誰が喪主や!?」と、怒鳴りそうになりました。 そして、当然の如く、祭壇や棺のグレードにも口を出してきました。 「お金がない!!」 何度、こう言ったでしょうか。 こんな言葉を吐くのはみっともないけれど事実だし、母が生前、「お葬式にお金はかけんといて」と言っていたのです。 「一番大事なのは、送る人の気持ちですからね」 Kさんが私の選択を支持してくれました。 葬祭場としては、余裕のある人に金銭的サービスは必要ないですが、余裕のない人に対しては、単価の安いものを何項目か無料にできるようでした。 見積り担当者がKさんと阿吽の呼吸で、「これ、サービスしますね」と、いくつか無料にしてくれ、計5万円ぐらい浮きました。 総支払い金額と比べれば微々たる額に見えますが、それでも非常に有難い話です。 始発電車が走る頃に打ち合わせが終わり、伯父達は電車で、私は車で一旦帰宅しました。 2時間ほど仮眠を取って、母の友人やご近所、自治会などへ連絡し、葬儀の日程を伝えたり、お手伝いをお願いしました。 皆さんが手分けして連絡を取ってくれたので、私が連絡を入れたのは10人にも満たなかったでしょう。 午前10時に、母の遺影に使う写真と、焼香の順番表を持って行きました。 悲しいのに、悲しんでいる暇がありません。 疲れているのに、"休みたい"と言う余裕がありません。 葬儀は大変だと聞いてはいたけれど、まさかこれほどまでとは。 今まで多くの葬儀を担当してきたKさんが、空き時間は少しでも体を休めるようにと気遣ってくれました。 午後3時半に、伯父達も葬祭場へ集合。 焼香の順番表に何か言いたげな伯父の様子に気付いたのか、Kさんは、 「焼香の順番表、完璧でしたよ~」 と私に言ってくれました。 私がグッジョブ!の親指を突き立てると、私と仲の良い叔父(母の末弟で、母とも非常に仲が良かった)が、 「こいつ、褒められたらナンボでも調子に乗るから、あんまり褒めたらあきませんで!」 と、すかさずツッコミ。 「昨日から見てますけど、ほんまに兄妹みたいに仲がいいですなぁ」 と笑うKさんに対して、私と叔父が同時に、 「こんな兄妹、いらん!!^^;」 昨日から張り詰めていた精神が、一時的にでも少し楽になった瞬間でした。 1時間後の午後4時半、親族立会いの下で「湯潅(ゆかん)」という儀式に入りました。 母を綺麗に洗ってもらうのです。 この湯潅、実に6万3千円もかかるのです。 打ち合わせの時に値段を聞いた私は絶句して、お願いしますと即答できませんでした。 Kさん曰く、どの人も値段を聞いて一様に驚くけれど、終わるとみんな、"やって良かった"という感想を述べるとのこと。 それでも、なかなか返事ができませんでした。 しかし、次の言葉が私に湯潅を決意させました。 「病院ではアルコールで体を拭いただけだし、オムツもしたまんまなんですよ」 そんな姿で天国へ逝かせられへん。 お母さんが可哀想や・・・。 結果、私も他の方々と同様、やって良かったと思いました。 体も顔も、とてもとても綺麗になったのです。 母には白装束でなく、生前に着ていた服を用意しました。 「白装束は高いから、おうちから持って来てもらっていいですよ。 ずっとお仕事してたご主人に、スーツを着せて送った方もおられますから」 打ち合わせの時にKさんが、そう言って認めてくれたのです。 その言葉に甘えて、下着と靴下、オレンジ系のセーター、母がよく穿いていた茶色で光沢のあるボトム、そして寒がるといけないので、母が昔に編んだモヘアの可愛いショールも持って行きました。 病院の浴衣から私服に着替えた姿を見た時、今にも起き上がって何処かへ出かけるような錯覚を受けました。 麻痺した左足の膝が僅かに曲がっていただけで、胸の上で綺麗に手を組んだ姿は本当に眠っているようだったのです。 それに、何だかとても上品に見えました。 湯潅のスタッフが、それほど綺麗に服を着せ、お化粧も施してくれたのです。 手前味噌ですが、私が選んだ服は想像以上に母に似合っていました。 そして、棺にはクラシック音楽のMDを3枚、歌劇「アイーダ」のパンフ、美術本、何枚もの花の写真、奥の細道と平家物語の本、そしてお菓子と、大好きなものを沢山入れました。 食べることの好きだった母に、Kさんがお供えのリンゴも入れてくれました。 夜7時、通夜が始まりました。 受付は、近所のおばさん達と自治会長さんがしてくれました。 お香典は受け取りました。 夜中の打ち合わせの時、「香典を受け取ると、返しが面倒だ」と、うるさい伯父が言っていたのですが、私は始めから受け取るつもりでした。 お返しを考えるのは私にとっては面倒なことではないし、皆さんが当日、わざわざ用意してきて下さっているものだからです。 伯父が自分の意見を私に押し付けようとしていた時、Kさんが私をバックアップしてくれました。 「せっかく持ってきて下さったものを断るというのは、実は失礼なんですよ」 伯父はそれに対して返答できませんでした。 正直、ざまあみろという感じでした。 そして、香典返しはその日にするということにし、芳名帳に金額も記入していただき、それに応じて"選べるカタログギフト"を渡すということになりました。 (そういうシステムが主流になりつつあるようです) その香典返しは、とりあえず50個用意してもらったのですが・・・。 通夜の主なセレモニーが滞りなく終わった時に、Kさんが驚いた様子で話しかけてきました。 「香典返し、50じゃ全然足りずに慌てて追加しましたよ。 お母さん、物凄く沢山の人とお付き合いしておられたんやね」 確かに一般焼香の時、焼香台の傍らに立ってご挨拶をしながらも、面識のない人がかなりいました。 母の同級生など、名前を言われて初めて分かった人もいましたが、分からないままの人が本当に多かったのです。 生憎の雨にも拘らず沢山の人が来てくれて、改めて母の付き合いの広さ、多さに感心しました。 ご近所さんも皆さん来てくれていて、中には以前ご近所だった人が、わざわざ引越し先の和歌山から、母の通夜の為だけに来てくれていました。 「Nishikoちゃん、ほんまによう頑張ったね」 「お母さん、きっと喜んではるよ」 口々にそう労ってくれ、その言葉に身内以外の前では我慢し続けていた涙が零れました。 その後も、遅くに訃報を知った人や、仕事を終えてからの人が駆けつけてきてくれました。 私の知人友人も、想像を遥かに上回る人数が来てくれました。 そして、音信不通に近い状態だった私の愚弟が、夜10時頃にやって来ました。 以前、私は、 「母が死んでも絶対に弟は呼ばない! もし来ても親族扱いはしない、一般焼香にする!」 と言い張っていました。 それほど素行不良で、母に酷い心労をかけたことが許せませんでした。 私自身、弟に対するストレスで、半年ほど胃潰瘍と不整脈を患った経験があります。 ですが、いざ母が亡くなってみると、考えが少し変わりました。 弟を許せない気持ちは消えません。 ですが、母にとっては、できの悪い子ほど可愛くて、ずっと気にしていて、お腹を痛めて産んだ息子であることに変わりなくて。 姉弟の不仲を見ながら、母は昇天できるだろうか。 葬儀には勿論、これからの法事にも息子が来てくれたら、母は嬉しいに決まっている。 ここは私が大人になって、胸襟を開くべきかもしれない・・・。 母が亡くなったことを連絡した時、 「今、仕事やから、お通夜には行けそうにないなぁ。葬式には行けるけど」 そんな返事をした弟に対して、こいつ!と思いました。 苦労をかけまくった母親の、告別式にしか来ないつもりか!?と。 しかし、弟の返事は"通夜の19時には間に合わない"という意味だったそうで、仕事の目処が付き次第、こちらに向かってこの時間になったとのことでした。 本人なりに、急いで来たようなのです。 棺の窓を開けて母の顔を見せると、弟は泣きはしませんでしたが、じっと見ていました。 「お前はほんまに親不孝したけど、それでもお母さんにとったら可愛い息子やったんやで。 今日と明日、ちゃんと側にいて最後の親孝行してあげなあかん」 それに対し、弟は「うん」と答えました。 弟の自宅が遠いので葬祭場の控え室に泊まらせ、夜中のお線香と、朝のお供えに立ち会うよう頼んで、私は自宅に戻って翌日の告別式の準備をして眠りました。 コメントをくれた、あほう鳥兄ぃ、かーこちゃん、ゆうささん、やにゃんさん、teruさん、tomatoccoさん、やゆりちゃん、ちーちゃん、テンテンさん、ぴこんちゃん、ちらいむ先生、syuichiさん。 私書箱にメールをくれた、ゆかちゃん。 レスできずに、ごめんなさい。 私や母に言葉を送って下さって、本当に本当に嬉しく思っています。 心から感謝します。どうもありがとう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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