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テーマ:介護・看護・喪失(5319)
カテゴリ:母のこと・介護
告別式は、午前11時~12時。 時間は、火葬場の予約時間によって左右されると初めて知りました。 通夜ほどではありませんが、まだまだやることがあります。 その中の一つとして、昨日に引き続いて読経に来て下さったお坊さんに、お布施を渡さなければなりません。 この辺では通常、車代などを含めて25万円包むそうです。 ところが。 「20万円でいいですよ」 葬祭場の店長Kさんが、そう言うのです。 どうやら、"若い喪主で経済的にも大変なので、何とか20万円にしてもらえないでしょうか"と、お坊さんに直談判してくれたようなのです。 また、このお坊さんがお寺の上位にいる方だったため、個人の判断で二つ返事でOKして下さったとのこと。 Kさんが担当者であったことに加え、何かの縁で来て下さったお坊さんが上位の方であったこと、幸運が重なりました。 告別式が始まる1時間ほど前に、昨日はなかった喪主のリボンをつけました。 続々と皆さんがお別れに来てくれました。 普通、通夜に参列した人は告別式には来ないことが多いのですが、2日連続で来て下さった方が沢山いました。 お坊さんの入場までの間にスピーカーから流れていたのは、三大テノールのホセ・カレーラスの声でした。 母が好きだったことを司会の女性に伝えていたため、気を利かせてくれたようです。 その他は、私が持参した(母がよく聞いていた)クラシックCDをかけてくれていました。 母にとって、とても心地よい時間だったと思います。 お焼香までは通夜と変わらない段取りでしたが、読経が終わると"喪主の挨拶"が待っていました。 昨日も挨拶はしました。 ですが、「通夜の場合は突然のことなので、簡単で良い」と聞いていたため、本当に簡単な言葉しか述べませんでした。 でも、今日は違います。 ところが、実は困ったことが起きていました。 昨日、受け取った様々な書類の中に、挨拶の例文がプリントされたものがあったのですが、それを紛失してしまったのです。 昨日の通夜の席に持ち込んで読経の間に暗記し、皆さんの前で挨拶をしました。 その後、部屋の外に出て参列者のお見送りをするために席の上に放置したのですが、戻るとなくなっていたのです。 そこには、きちんとした立派な(私が一生使わないような)言葉が書かれていました。 それがないと、私の頭脳レベルではとても構築できない文章です。 後でKさんにもう一部くれるよう頼もうと思っていたのに、そこからもバタバタしていたためすっかり忘れてしまい、夜中に帰宅して思い出したのです。 ・・・仕方ない、自分の言葉でやるしかない。 通夜の後でフラフラになりながら、ざっと文章を書きました。 私が経験した他人様の告別式では、喪主さんがちゃんと暗記して挨拶しておられたのですが・・・。 私は書いただけで、寝てしまいました。 その挨拶をしなければなりません。 もうどうしようもないので、紙を手に、拙い文章を読み上げる形になってしまいました。 ですが、この自分の言葉で行った挨拶が、とても評価してもらえたのです。 後にKさんが言ってくれました。 「喪主の挨拶、良かったですよ。 僕ね、もう数え切れないほどお葬式を見てますけど、久しぶりにウルウルきました」 身内にも言われました。 「それまでも泣いてる人はいてたけど、挨拶でみんな、すすり泣き始めたもんな。 俺も泣きそうになった」 他にも何人もの方々が、「しっかりした上手な挨拶やった」と、褒めて下さったようです。 形式通りの挨拶よりも、やっぱり自分の言葉の方が人の心に届くのだと思えました。 "生前は故人が大変お世話になり・・・残された私共にかわらぬご厚情を賜りますよう・・・"といった堅苦しいものよりも、背伸びをしない言葉の方が結果的に良かったのです。 挨拶で死因を詳しく述べるべきではないと聞きますが、みんなが知りたいのは正にそれなので、私はちゃんと伝えました。 そして、母がきっと一番言いたかったであろう、皆さんへの感謝の気持ちも忘れませんでした。 例文のプリントがなくなったのには、ちゃんと意味があったのです。 この挨拶文を殴り書きした紙も、きっといつか失くしてしまうでしょう。 自己満足で恐縮ですが、ここに記録として残させてもらいます。 「本日はお忙しい中、また、生憎の天候の中、母・○○○○の告別式にお越しいただき、 有難うございました。 2年2ヶ月前、母は脳幹出血で突然倒れました。生命の全てを司る場所にダメージを 受けましたが、死の淵を彷徨って生還し、重い後遺症と戦って参りました。 そして今年1月10日、私が午前中に訪ねた時は、それほど変わった様子はないように 思えたのですが、午後、急変したとの連絡が入り行きましたところ、肺炎を起こして おりました。呼吸は不規則で、呼びかけても意識はありません。 そして、その夜10時53分、母の弟達が様子を見に来るのを待っていたかのように 静かに息を引き取りました。これで、長い寝たきり生活が終わりました。 その夜中3時頃ですが、自宅にいた△△が、雨戸を叩く音や家の中を誰かが歩き回る音を 聞いたそうです。きっと母でしょう。 今まで寝たきりだったので、自由に動けるのがさぞかし嬉しかったのだろうと思います。 生前、母は苦労の多い人でした。病気も多く、失うものもありました。 ですが反面、明るく話好きで、とても大きな財産を持っていました。 それは、お友達です。母は多くのお友達に恵まれました。 元気な時、倒れた時、そしてお別れの時、こうして沢山の方々が母に会いに来て 下さいました。そして、私も皆様に助けられました。心から感謝しております。 人が大好きで、人に囲まれているのが好きな母でしたが、言い換えれば寂しがり屋でした。 ですので、皆様、時々母のことを思い出してやって下さい。 夢に出てきましたら、沢山話して、あちこちに連れて行ってやって下さい。 とても喜ぶことと思います。 皆様、本当に有難うございました」 読んでいる最中、二度、涙声になって詰まりました。 (夜中の不思議な音に関しては、また次回、詳しくお話します) 挨拶が終わって、最後のお別れになりました。 棺の蓋を開けてもらい、母にお礼を言いました。 「お母さん、お疲れ様。ゆっくり休みや・・・」 そして、親族のみんなと一緒に切花を沢山入れました。 私達のお別れが終わると、参列者の皆さんも母に花を手向け、お別れをしてくれました。 眠る母にかけてくれた沢山の言葉は、きっと耳に届いているはずです。 「お母さん、大好きなお花がいっぱいで喜んではるよ」 Kさんがそう言ってくれました。 それから、皆さんに見送られて火葬場へ。 葬祭場を後にする時は、母に生前言われていた通り、ラヴェルの「ボレロ」をBGMにしました。 そして、午後12時30分、母は真っ白になって天に昇りました。 その後、夕刻からKさんが自宅に来て、中陰壇というテーブルを設置してくれました。 四十九日まで、戒名と遺骨と遺影、そして花や線香、お供え物やロウソクを置くものです。 対の灯篭もセッティングして(新品なのに何故か電球が1個なくて、この日は片方しか灯せませんでしたが)、あっという間に母の席ができました。 肉体はなくなってしまったけれど、やっと帰って来れたね。 おかえり、お母さん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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