「愛の讃歌」美輪明宏
お知らせ 彼と一緒に暮らすことになりました。貧乏なのでネット環境を維持することを諦めようと思い、当面ブログを閉鎖することにしました。突然どこかでまた始めることになるかもしれませんが、今までアクセスしていただいたみなさま、読んでいただいたみなさま、書き込んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。 「愛の讃歌」シアタードラマシティ 私には、ひとまわり下の彼がいる。特に珍しいことでもない。この舞台の主人公、偉大なるフランスの歌姫エディット・ピアフが死んだ時、彼女には20以上も年下の夫がいた。エディットが彼と出会ったのは、名声を得ていた華やかな時期ではなく、歌を忘れ借金とアルコール中毒にうめいていた時期であった。療養所で息をするのも絶え絶えだったエディットを救ったのが、太陽の光そのもののようなギリシャの青年テオだったのだ。 「あなたの純粋さ、清らかさ、初々しさが私の汚れた魂を洗い流してくれる」 畏れながら私もそうである。自分の生きてきた道程に後悔はない。しかし、悲しみ、苦しみ、憎しみを越え生きるうちに思わず知らずたまった、猜疑心、計算高さ、狡猾さは垢となり、私の心をぐるりと取り囲んでいた。それに気づかせたのは、彼との出会いであった。若さだけが持つ濁りなき魂の輝き。混じりけのない優しさはゆらめく水鏡そのもので、いつでも私は彼のそばにいるだけで自分が蘇るのを感じる。こんな出会いがあるのである。 この先どうなるかは全くわからない。彼と息子は歳の離れた兄弟のように仲がよい。時々息子が一人増えたような錯覚を覚えることがある。彼はある時は息子のようで、ある時は友人のようで、ある時は夫のようで、プリズムのように多様な光を放つ。 「朝、目が覚めたとき 私の身体が愛にふるえている 毎朝が愛に満たされている 私にはそれだけで十分」 エディットが書いたこの歌詞が、私の心にまっすぐ届いた。今の私にはこの意味が少し分かる。ついこの前までぼんやりとしていて意味を成していなかったこの言葉が今では少し理解できる。愛の形、愛の温度。愛の手触り。彼が届けてくれた愛の眩しさに私はまさにふるえている。 彼だけではない。職場のお母さん達との愛情のやりとりも、子供の笑顔も、光そのものだったのだ。私が鈍感だっただけ。一番欲しかったものが目の前に並んでいたのに、気づかなかったのだ。 もちろん日常はごたごたしていて、疲れたり傷ついたり、なかなか落ち着かないのだが、彼と子供といる時間空間は、いつでも光に溢れている。そこにいて初めて、自分が闇の中にいたことに気づくのだ。 全てはうつろうのだから、光が失われる時は来るだろう。しかし光の存在を知った以上、私はそれを信じ続けて生きるのだろう。 美輪さんがいつも言う「愛と美があれば人は生きていける」。暗がりの中、「美」にたびたび救われてきた私は、「美」の力を信じている。そしてようやく「愛」の力を探しあてようとしているのかもしれない。しんどいときもあったけれど、ここへ来て「ごほうび」をもらったような気がしている私は今、自分を「捨てたもんじゃない」と褒めてやりたい気分になっている。