白衣の盾・叫ぶ瞳(6)
書き物をしている信夫(しのぶ)の背後から両方の二の腕のあたりを捕んだ者がいた。「左の三角筋の方が張ってるぞ。彼女への腕枕は程ほどにな」警備部の先輩の二星(にせい)だった。「彼女なぞいませんよ。そんな余裕はないです」「じゃあ、気合を入れ過ぎだな」二星は信夫の書きかけの書類の上に、小ぶりのチョコレートバーをぽいっと投げた。「気を抜ける時は抜いておけよ、それも仕事の内だ」二星は陽気で面倒見の良い男で、配属されたばかりの信夫に何かと気を配ってくれる。卓真の配属先を教えてくれたのも二星だった。卓真の性格からして、向こうからは何も言って来ないのは解っていた。信夫は卓真も警備部を希望していたのを知っていた。その警備部に自分が配属され、卓真の配属先がなかなか決まらなかったので、何となくこちらからは連絡が取り辛かった。再会の機会は意外と早くやって来た。先代の村の守護者であった三峰様が村へ戻られる際の護衛の末席に、信夫も連なる事になったのだ。三峰は、今は結界に閉ざされた村と”外”を行き来出来る数少ない者のひとりであった。三峰は”人でない”者であった。かつての『奴等』との戦いの中で、人である事を捨てた代償に大いなる力を得た。兄の竹生(たけお)と共に、最高の”盾”とうたわれた人物であり、稀なる美貌と温厚な人柄で、人でなくなった今でも村人達の尊敬の念を一身に集めている。信夫のような新米には、まさに雲の上の存在である。その日、表向きは古ぼけた古本屋のビルにしか見えない”盾”の拠点の裏手に、黒塗りの三台の乗用車が停まっていた。居並ぶ警備部の”盾”の前を三峰は過ぎていった。すらりとした長身に白き外套をなびかせ、優雅に歩を進めていく。青く甘い香りが漂う。白き髪はふっつりと肩で切られ、花の如き白きかんばせをふちどっていた。信夫も緊張しつつその列に加わっていた。最近はめったに人前にはお出になられぬと聞いていた三峰様が、手の届きそうな所にいる。それだけでも信夫は光栄のあまり、眩暈がしそうな気分になっていた。三峰と目が合った。男女の垣根も何もかも越えた美そのものの顔の、底知れぬ深さをたたえた青くみえるほどに澄んだ瞳から、信夫は目が離せなくなった。三峰の足が止まった。三峰の形の良い薔薇色の唇が動いた。「新顔だな、名は何と言う」咄嗟に答えられずにいる信夫の隣にいた二星が代わりに答えた。「風の家の庵谷(いおりだに)の息子、信夫と申します」三峰はうなずいた。「我が部下であった庵谷の息子か、あれは律儀で良い奴だった。目元が似ているな、父と同じく良い”盾”になりそうだ。お役目に励めよ」三峰は微笑した。そこだけ仄かに光が差したような、そんな微笑だった。自分に向けられた笑みのあまりの美しさに、信夫は陶然とした。甘いおののきが全身を走る。今にも膝から崩れそうなほどに。喉は干上がり、何も言えなくなっていた。二星に背中を小突かれ、慌てて頭を下げるのが精一杯であった。三峰の車のすぐ後ろにつき従う車に信夫はいた。まだ信夫は三峰の呪縛から抜け出せていなかった。三峰の青く甘い香りが自分の芯まで染み込んで支配されているような気がしていた。それは不快ではなかった。むしろ快感に近かった。後部座席に並んで座っていた二星が言った。「お前は運はいいな、早々にお声をかけられるとは」信夫よりは三峰に接する機会がある二星は、今の信夫の状態を良く理解していた。初めて三峰様を間近にした者は、誰もが同じようになる。「三峰様はお優しいお方だ。我らのような者にもお気を配って下さる」(信夫は、これから一層、三峰様への忠誠を深くするだろうな)二星は思った。村の結界を越えられるのは、三峰様だけである。三峰様が村で数日を過ごす間、信夫達は狩衣(かりぎぬ)の詰所で待機する事となった。卓真(たくま)の配属先である。三峰様を送り届けて、詰所にやって来た護衛の中に、卓真は信夫の姿を見出した。信夫は晴れやかな顔をしているように見えた。警戒と称して、田舎道を無駄に巡回しているような己の境遇と、あまりにかけ離れているように思えて、卓真の胸の底に黒々とした澱が淀んだ。ほんのしばらく前までは肩を並べた同期だったのに、大きな川の向こうとこちらにいるような隔たりが二人の間にあるようだった。信夫はそんな事は思ってはいない。卓真だけが感ずる劣等感と無念の思いが、嫉妬に変質していくには、それほど時間がかからなかった。(つづく)