紅き涙は朝に消ゆ(14) 花護る翼は刃となりて その3
次の朝、古本屋の地下の道場に集合し、白神からの命令を受けていた盾達の前に、驚くべき人物が現われた。人々は目を疑った。目を疑いながらも、それが誰であるか、疑う者は誰一人としていなかった。竹生であった。白神ですら、信じられぬといった顔をして、その姿を見た。屋敷に住まうようになってから、竹生がここを訪れた事は、白神の知る限り一度たりともなかった。どんなご用件でと白神に聞く間も与えず、竹生は一同の前に立っていた。自然と盾達は膝をついていた。白神も一歩下がり、竹生の背後に控えた。地下室であるのに、黒衣の裾がゆるやかな風になびいていた。白く長い髪が宙に不思議な跡を描いていた。竹生の薄赤い唇が開いた。心地良き眠りの物憂さと夜風の清涼を含んだ声が言った。「我が甥、鵲(かささぎ)は、桜子を妻と選んだ。これより桜子は我が姪、我が身内となる。桜子に害なす者は、我が敵と見なす。何人たりとも、我が剣から逃れる事は出来ぬ。心に刻んでおくが良い」それだけ言うと、竹生は出て行った。竹生が去った後も、しばらく誰も口を聞く事はおろか、身動きひとつする者もなかった。ただ入って来て、ただ出て行っただけであるのに、猛者揃いの”盾”達が、竹生に骨の髄まで圧倒されてしまったのである。やっと息を吐き出し、立ち上がった時、彼らは己の全身に立つ鳥肌に気付いた。そして己の強さを過信していたと思い知った。己の未熟さに打ちのめされ、誰もが言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。(私が百の苦言を並べるより、竹生様がお姿を一瞬お見せになった方が、何と効果がある事か。さすが”最高の盾”と呼ばれた御方だ)白神は、胸の内で思った。二階の廊下で、桜子は、向こうから来る竹生と行き合った。桜子はその場で立ち止まり、軽く頭を下げたまま、竹生が過ぎるのを待とうとした。普段の竹生なら、そのまま桜子の事など眼中にないかの如く、過ぎるだけであるのに、その時は違っていた。不意に、桜子は白く長い髪の帳の中に閉じ込められた。桜子は竹生に抱きしめられていた。驚いた桜子の頭上から、天の音楽の如き声が響いた。更に驚いた事に、その声には優しさがあった。「桜子よ、我が甥の妻、我が姪よ。お前は我が家族、お前に我が剣の庇護を与えよう」青く甘い香りが桜子を包み込んだ。その香りの中で、桜子は陶然とその声を聞いていた。「保名(やすな)が屋敷に着いたら、お前達の婚礼をしよう。呼べるだけの者を呼び、一番良い酒も料理も振舞おう。お前にも綺麗な衣装を・・お前の名と同じ桜色がいい。下に行って桐原に伝えよ、お前達の婚礼の用意を、私が命じたと」桜子が我に返った時、廊下には只一人、彼女だけが佇んでいた。だが、今のが夢でなかった証拠に、その場には微かに青く甘い香りが漂っていた。鵲の胸に感じたのと良く似た香りが。(竹生様が、私をお認めになって下さった)感謝と喜びを胸に、竹生の言葉を桐原に伝えるべく、桜子は急いで階下へと向かった。(つづく)