想像力と隠されたもの
以前、日本でタイ人の女の人に、日本では下着は部屋の中で干す、と言ったら不思議がられた。(注:以下の会話は日本語でした)「日本には下着泥棒っていうのが居るのよ」と言うと、「何それ!?」と更に不思議がられた。説明すると、「前、朝、下着洗濯。かける。夜ない!どこ?どこ?」と言う。「なんで~?思っていた。」と仕切りに肯いて納得していた。その後、何で持っていくのかと聞かれて、変わった性癖の人が居る事を説明しました。彼女は驚きながらも不思議で仕方なさそうだった。その時の私?日本人だという事が恥ずかしかったわ。その後、他の国の人にも何度か「下着泥棒」について訊かれた。この下着泥棒という犯罪は、日本では良く知られているが、私は他の国で聞いた事が無い。新しい下着ならともかく、何で見ず知らずの人が使った古い下着を欲しがるのか、それをどうするのか、理解出来ない人の方が世界には多い。その内に下着泥棒の事を聞かれても恥ずかしいとも思わずに臆面もなく答える様になった。私が盗んでる訳じゃないもんね(笑)。慣れっていうのはこういうものなのか?(^^;日本人は性的な部分にも想像力を強く求める。イメクラなんてのは良い例だと思う。ポルノでもモザイクをかけまくる。大人のセックスを日常的にしているであろう人々を対象にしているのに、肝心の所を見せないのは詐欺みたいなやり方だと思うが(笑)、このモザイクで却って興奮するという人も居る。これが私にはどうも分からない。モザイクが淫靡とはどうも思えない(笑)。ところで一般の映画でもこのモザイクやボカシは多用されている。映画「The Crying Game」(邦題:クライング・ゲーム)の日本版を観た時に、唖然とした。ぼかしのせいでストーリーの山場の部分が台無しだった。日本版しか観ていない人が、今一つ理解出来ないと言っていたのを聞いてボカシの向うにあった物を説明すると、やっと納得していた。あれは映画自体や製作に関わった人間に対する冒涜だ。映画の最も重要な部分で、あんなボカシを入れる位なら、年齢制限をきっちりして、きちんと映画を見せるのが道理って言うもんだ。丁度、国内で芸術作品に対するボカシの規制が緩くなってきた頃だったので、余計がっかりして頭にきた。この映画、とても面白い映画なので、ボカシ無しで観る機会があったら、是非ご覧になってください。日本版を観る何十倍も楽しめると思います。ところで隠すといえば、最近は日本の報道で血や死体や手錠を見ない。逮捕された人の手にモザイクがかかっているのを見ると、いまだに違和感を覚える。隠すのは人権の保護が目的なのだろうか?だとしたら、手錠は隠すのに逮捕された人の顔は流すのは何故だろう?昔はもっと生々しい映像や画像をニュースや新聞で見かけた。最近は直接的で衝撃的な映像はとても少なくなった。その一方で、ドラマや映画では暴力も死も増える一方だ。架空の死ばかり見せて、現実の死は隠す。何だかとてもアンバランスに感じる。死を現実のものと感じる事が、生きるという事を真剣に考えるきっかけに成り得ると思うのは、今では珍しい考え方になってしまったのかしら・・・。