宇美町にある四王子県立の森から歩いて20分の大野城跡北石垣地区の発掘現場説明会に行ってきました。
3/10の新聞でも報道されていたように城門の扉の開閉用の鉄製の軸受金具が古代山城としては国内発の出土ということで、どんなものかこの目で確認してきました。
下の写真のように、全体的に錆びて赤茶けていて、おわんを伏せたような半球状の錆びた鉄の塊が礎石に埋め込まれていました。
どのくらい石の中に埋め込まれているのか取り出そうとしているそうですが、
錆びてくっ付いてしまってなかなか取れないそうです。
この城門は、大野城では7つ目の城門で、北石垣口城門と呼ぶそうです。
城門の幅は4.6m、東西の土塁を石垣で土止めして、直ぐ内側に城門の扉などを乗せる掘り込みのある礎石があります。礎石は東西の石垣の脇に一つずつあり、城外から見ると左側にあたる東の扉のための鉄製軸受けだけがしっかり礎石に埋め込まれた状態でした。
軸受ある礎石には更に直径45cmの掘立柱用のくり抜きも掘り込まれています。
また城門の東には土塁が築かれており、その土塁に城内の水抜き用の水門もありました。
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城門だけでなく、石垣も見つかり、確認できたもので高さ4m幅18m弱の石垣が聳え立っていたと推測できるそうです。さらにもう一段石垣の跡が見つかり、2段構造であることが分かったそうです。
このような2段構造の石垣は、国内の古代の山城ではあまり例が無く、大変貴重とのこと。
どうも中は層状の土を積み重ねて土塁を作りその前面に石垣を貼り付けたような「土芯・石貼り」とでも言うべき構造を持っていることが分かったらしいのですが、この北石垣の構造は、大野城のほかの石垣では見られず、特徴的なものと言えそうです。
城門の上には4本の支柱に支えられた構造物があったようで、瓦なども発見されたということです。
いや、こんな山奥で、こんな大工事を、古代の人はどのくらいの人と時間をかけてやったのでしょうか?
また、本当に大和朝廷の命令で行ったのでしょうか。
唐・新羅からの攻撃に備えて水城や大野城を造ったとのことですが、大和朝廷がなぜそうまでして太宰府を守るのでしょうか?
もっと海岸線の守りを強化して、更に近畿周辺の守りを強化するならば納得しますが、
九州の太宰府の守りを大和朝廷が行うとは考えられないのですが・・・
日本書紀によると白村江で敗れた後百済からの亡命者の知恵を借りて665年に築城されたことになっているけれど、北石垣口城門は、4本柱の前方の長いほうの柱が、門の前に組まれた石垣よりも中に入っており、これは、百済の山城の構造には見られず、むしろ高句麗の構造に近いとのこと。
大和朝廷は、大野城に関して多少の手直しはしたかもしれないけど、真の都としての太宰府を守るために、太宰府を真の都としていた大和朝廷以外の王朝が、大和朝廷からの攻撃を防御するたえめに、もっと前に既に大野城も水城も造っていたのではないかと思うのですが・・・
つまり水城や大野城が最初に出来たときには、まだ大和朝廷は九州までは統一していなかったのではないかと思うのです。
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Last updated
March 17, 2007 04:00:11 PM
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