ノルマントン号事件
1886年(明治19年)10月24日、イギリス船籍の貨物船『ノルマントン』号が紀州沖で座礁沈没しました。このノルマントン号には、イギリス人、ドイツ人、インド人、中国人、日本人が乗船していました。日本人乗客25名は全員が死亡しました。これが、ノルマントン号事件の始まりでした。現在の主権国家で、その領土内で起きた事件、事故についての裁判は自国の主権を行使して行なわれます。事件、事故の関係者に外国人がいても、その外国に裁判をさせたり、裁判に参加させたりはしません。明治初期の日本では、日本国内で外国人が事件、事故を起こした場合、日本の裁判所は、その外国人を裁けませんでした。日本に駐在する、その国の領事が裁判を行なっていました。それが『領事裁判権』であり、幕末にヨーロッパ諸国、アメリカと結ばれた条約に明記されていました。さらに、当時の日本では、輸入品にかける関税率を自由に決められる『関税自主権』がありませんでした。日本は、『領事裁判権あり』と『関税自主権なし』の、いわゆる『不平等条約』によって、国際的に極めて不利な状態を余儀なくされていました。ノルマントン号の事故の知らせを聞いて、日本の世論は激昂しました。イギリス人の船長、乗組員が日本人乗客に適切な避難誘導を行なわなかったため、全員が死亡した、これは人種差別であるというのです。事実検証では、イギリス人船長は、日本人乗客は英語がわからなかったため、救命ボートに乗るようにすすめても、応じなかったので、助からなかったと主張しました。これは、あきらかに船長の偽証です。船が沈みそうであれば、英語がわかるわからないに関わらず、救命ボートに乗るはずです。イギリス領事による裁判では、船長、乗組員全員が無罪でした。日本政府の抗議による再審では、船長に3ヶ月の禁固が言い渡されただけでした。この事件以後、日本では不平等条約の改正を求める運動が高まりました。1894年(明治27年)、イギリスとの間に、通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃に成功しました。さらに1911年(明治44年)、アメリカとの修交通商条約で、関税自主権を日本のものとしました。国力の高まりを背景にして、日本は『条約改正』を達成しました。日本がアジア諸国への進出の過程で、かつて苦しんだ不平等条約を、相手に押し付けたかどうかは、意見が分かれる問題です。外交官は『外交官特権』により、駐在国で罪を犯しても逮捕されたり、裁判にかけられることはありません。国際慣例では、国家元首にも、その特権があるそうです。