家康、三方ヶ原に敗れたり!
元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、武田信玄軍が徳川家康・織田信長軍を撃破しました。三方ヶ原は現在の静岡県浜松市にあります。同年10月3日、武田信玄は甲府を出発して京への進軍を開始しました。これは、足利幕府最後の将軍となった足利義昭の要請によるものと言われています。12月22日、二俣(ふたまた)城を進発した武田軍は、家康が守る浜松城ではなく、堀江城に向いました。家康から見れば、無視されたとしか思えません。部下の制止を振り切って、家康は武田軍攻撃を命じました。家康は武田軍を背後から攻撃する作戦でしたが、武田軍は家康の行動を予測して待ち構えていました。徳川・織田連合軍1万1千に対して、武田軍は2万5千、徳川軍は善戦しましたが、武田軍の兵力、作戦の前に敗れました。しかし、武田軍は徳川軍を壊滅させ、家康の首をとることはできませんでした。この戦いで家康は討ち死に寸前まで追いつめられましたが、武田軍の追撃を振り切り、浜松城に一騎で逃げ帰りました。このあと全ての城門を開き、篝火(かがりび)を焚き『空城の計』を行いました。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得たのです。この戦いは、家康の生涯に一度の敗北といっていいでしょう。敗北後に描かせたといわれている、憔悴しきった苦渋の表情の肖像画が残されています。当時、家康は30歳でしたが、どうみても50歳以上の風貌です。この肖像画は、軍略の重要性を自らの戒めにするために描かせたと言われています。