江戸へ移るか、三河に残るか
現在は、はっさく(八朔)といえば、夏みかんに似た柑橘類の名前です。江戸時代は、正月とともに幕府の重要行事でした。今から419年前の天正18年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸に入城しました。まだ、家康は秀吉の臣下でしたが、これが後の『天下取り』につながったのでしょう。したがって、江戸幕府の実質的な『創立記念日』です。ご承知のとおり、家康は三河を平定してから、遠江、駿河、甲斐を領国に加えていきました。しかし、非常な苦労の結果、獲得した領国を捨てて、関東に移らなければなりませんでした。現在の言葉でいえば、『転勤命令』でしょうか。命令権者が秀吉ですから、拒否できません。その命令発動は、小田原の北条氏攻めの陣で出されました。小田原城が見える丘で、秀吉と家康が『ツレション』中に、秀吉が発したそうです。これが、事実かどうかはわかりません。名目は、北条氏攻めの戦功ですが、秀吉の本音は家康を関東へ追い払うことでした。秀吉は草履取りから天下人になったのですから、頭が悪いはずはありません。しかし、人間ですから、失敗、過ちはあります。その最大のものが、朝鮮への出兵、秀次の粛清、そして家康の関東移封です。旧領国から関東への移封は、ずいぶんと慌ただしかったようです。『移封命令』の正式発令日は7月13日です。家康、家康の側近は、それ以前から知っていたでしょうが、下級の家臣には『寝耳に水』であったにちがいありません。父祖の地を離れられず、江戸へ移らなかった家臣もいたでしょう。他家へ仕官するか、商人になるか、農民に戻るか、人それぞれの道を選択したでしょう。関東移封から278年後、徳川は再び『移封命令』を受け取ります。明治新政府から、駿河70万石の大名にさせられたのです。