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Chesapeake's ワシントニアン日記

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2005年01月25日
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テーマ:生き方上手(687)
カテゴリ:旅行
【家族のふれあい】
雪もやみ、静かに日が暮れていった昨日。
底冷えする寒さから逃げるように仕事から帰ったら、暖炉には火が灯り、スコットがストロベリー・ダイキリをブレンダーで作ってくれていた。

夕食まで1時間ある。みんなで豪快に燃えている暖炉の前で寝転がり、ライムを絞ったダイキリを飲み、チップスを食べた。子供達も楽しそう。

家族で特別なお出掛けでもなく、他の事に気を捕らわれず、ただゆっくりとくつろぐ時間。こんなシンプルな贅沢は久しぶりであった。原始時代もこんな感じで一日の終わりを祝ったのだろうか。

そして、今日仕事から帰り、夕食の準備が終わった頃、フロリダの妹から電話があった。なんでも実家のお店が三○堂との売買の話しが進んでいる模様。

年末に母が大学の講義を引退し (通訳とコンサルティングはまだ現役)、父もそろそろ引退の準備なようだ。こんなに着々と話しが進んでいるとはすこしびっくりした。

地が山男の父は休みがある度(休みを作る度) にスキーやら登山やらに母曰くフラフラとと遊びにいく。これは私曰く男のロマンを貫いている父。

家族のふれあい・シンプルなひととき・父と男のロマン、と連想しているとネパールを思い出した。

【ネパール回想】
私が高校最後の冬休みだった年に父はある日宣言した。
「今年のクリスマス・プレゼントと正月のお年玉はネパール・トレッキング15日間旅行だ」

夕食を食べていた私は口のなかのものを吹き出しそうになった。
17歳だった私は、楽しみにしていたアメリカンスクール仲間との大みそかの六本木プランを台無しにされた。当時BFだったスコットもハワイ大学から冬休みのために東京に帰ってきていたのだ。(翌年は彼も招待してニセコでスキー旅行)

「えー、困る! 私もう冬休みは計画済みなんだけど。私ひとりで留守番していい?」
「ダメ。みんなで行くの」
「どうしていつもの様に嬬恋スキーにしないの? そっちの方がいい」
「ダメ」
「じゃ、温泉」
「ダメ。もうチケット買っちゃった」 うっ。。。

ブーブーと自分勝手な私の文句を横に家族は着々とプランを立てていく。
いつのまにか私のすぐ下の年のイトコYも同行することになった。
え、Yも来るの? じゃ、ちょっとマシになった。(現金なわたし)

母はもとからアウトドア系のものは苦手だったので彼女もあまり嬉しくなかったようだが、全員でいくので大人しくしていた。

私は反対に父に散々幼いころ鍛えられていた為、とりあえずアウトドア系であった。体型や運動神経からいくとそう思われる。(本性は室内でぐーたら系かも)

ネパールへ着くまでの22時間は辛かった。中華航空で羽田から台湾 ─ 台湾から香港 ─ ドラゴン航空で香港からダッカ・バングラデシュ (注油のためストップ。飛行機からは降りない。ここでは機関銃をもった軍隊が飛行場を警備しており怖かった) ─ ダッカからカトマンドゥに到着。

カトマンドゥに着き、空港から出た瞬間、現地の子供達にワーと囲まれ、お金をくれと一斉に手を出してきた。親に送り出されている子供は観光客を対象にお金を稼がされているのだ。

唖然としながらもタクシーに乗り込み、ホテルへ連れて行かれた。
着いた当日はみんなで異国での買い物や初めての値切りというものを楽しんだ。

次の日はポカラまでプロペラ機で飛び、イギリス系のホテルに泊る。
何だか40年代の映画に出てきそうな感じのお洒落で上品な古風のホテルだった。
インド系の料理を贅沢なチャイナやシルバーウェアで頂いた。
ウェイターも頭にターバンを巻いていた様な気がする。
まるでサファリでバカンスをする大富豪のような感覚。

翌日、ジープで麓で下ろしてもらい、4日間登り・4日間下りのトレッキングに出発。トレッキングのコースはミュール(馬とロバの合の子)が歩く道と同じであり、できたてホカホカのフンも転がっていたり。

家族メンバー一人ずつしっかり自分の寝具、ダウンジャケット・パンツ、着替、ダウン入り4シーズン用寝袋、トイレットペーパー、タオル、等をつめたリュックを背負っている。腰から頭の高さくらいまである。

夫婦で雇われたガイド兼ポーター達も同行である。彼等は現地で足腰鍛えられ、旦那さんのリンジは炊事・英語ができるマルチ人間であった。ネパール人だが、チベット系の人種であり、顔立ちもとても綺麗で人懐つこかったのを覚えている。

ポーターということもあり、彼等は物凄い荷物を背負っていたが、一番足取りが軽かった。ペースを見ながらスピードを調節してくれるのだが、運チなマイ・マミーと9歳だった妹は列の最後。父は最初は張り切ってさっさと先頭を歩いていたのだが、そのうち母が気になりゆっくりと後ろのほうを歩くようになった。

めんどくさいながら、挑戦されると受けてたつ性質の私はイトコのYと競争のようにどんどんと先へ行ったりした。

8日間の登り降りは毎日がひたすら歩き、食べるためと寝るためだけに村による、ということの繰返し。夕食は泊るための村へストップ。昼食も夕食も同じメニューで、タルカリにダル・スープ。ゴハンには砂利が入ってたりする凄いものだったが、私はこの素朴な料理が新鮮で最高だった。スパイスの効いたバッファローの肉もアラカルトで注文したりした。母はそんな私を日頃とは違う目でみていた。この頃から私のエスニック料理好きが始まったのだろうか。

夜は大抵離れた木の小屋の中のベンチそれぞれに寝袋をおき、標高およそ3000-4000Mのせいでマイナス何度という気温で寝るため、ダウンジャケットとパンツを着込んで睡眠。

若者・冬場という弱点もあり、夜中はみんなで起き出し、懐中電灯とトイレットペーパーをもって外にある「トイレ」にいく。トイレとは、地面に掘ってある穴であったり、木陰であったり、豪華なものだと崖から突き出た300メートル下の地面が見える小屋だったりした。これはさすがに用を足すまでかなりの時間がかかった。(高所恐怖症でなくても、谷からビョーっと吹き上げてくる血も凍るような風に出るものも引っ込んでしまうからである) この時ほど実家のウォームシートのトイレが恋しかったことは無い、と断言できる。

朝一番は決ってリンジが妙に甘いコーヒーの様なドリンクを作ってくれた。これがとても楽しみにしていたアイテムになっていた。(どこかで入手できるだろうか)

ゴラパニ峠を越える頃、夕日に照らされピンクがかったマチャプチャレとアンナプルナを拝んだ。生意気盛りの17歳の人生ではじめて素晴らしい景色を目にして感動した。大学時代、エベレストで山岳部の同僚を肺炎で亡くした父はどう思っていたのだろうか。気を改められていた私は父のことも気になっていた。

ゴラパニのレストハウスは今まで泊ったところより豪華であった。
やはり同じ目的できているドイツ人、オーストラリア人、アメリカ人の登山客もいた。先ほど目にした感動を語り合うように和気あいあいと誰とでも話しかける。
アウトドア系の人間達はみんな国境を越えた理解を持っているとも言える。
飾らない、気取らない、そして感動を素直に伝える。

夕食が終わったあと、ドイツ人の人たちとトランプを楽しみ、9時には失礼する。
ゴラパニが一番高度がある地点でもあり、夜は物凄く冷え込んだのを覚えている。トイレも出たいものが出てこない。

翌朝、5ルピーを払ってお湯の入ったバケツを頂く。4日目の初めての洗髪である。一人バケツ一杯だけで洗顔、洗髪なので交代で手伝う。マチャプチャレを拝みながらレストハウスの前の草のはえた地面の上で足を踏ん張り、前かがみに洗う。頭からは湯気がでる寒さでもあったが爽快であった。

(長くなったので下りのネパールストーリーは次回)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今日と明日の日記は大分長くなります。
読みにきて下さり、最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。<(_ _)>

ネパールは青春していたころの眩しい思い出なのです。
この旅行のお陰でファミリーの大切さや近代社会の贅沢をしている自分を見つめ直すことも出来たのです。「この貴重な経験を生かして」というような内容で南カリフォルニア大学の願書の論文に利用しました。全ハワイ大学でハワイ電力会社から一年間の奨学金を勝ち取ることも出来たのもこの論文のお陰だろうと思います。

お高く生意気な高校のシニアだった私を無理やり連れて行った父にも感謝。
男のロマンがなければ行かなかった場所だったとも思う。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

スヌーピー女王は今夜は抜かりがないように、念入りにブラッシングし、撫で撫で攻撃。エサもお皿満タン、トイレもキレイにした。これでも不満だというのなら手紙でも書いてもらいたい。。





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Last updated  2005年01月26日 15時42分56秒
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