日豪国際結婚の大先輩
愛し合って結婚し、子供まで生まれたのに国籍が違うからという理由で 夫と妻が一緒に住むことを政府に拒まれるとしたら。。。そんな理不尽で悲しいことが、実はオーストラリア人と結婚した日本人女性にはあったのです。今メルボルンでは、肌の色の違う様々な人が自然に街を歩いているけれど実はほんの少し前までは、ここオーストラリアは白豪主義の国でした。連邦人種差別禁止法が制定されたのは1975年、そして白豪主義が正式に撤廃されたのは1978年、今からわずか26年前のことです。オーストラリアへの移住はもともと英国系だけに限られており、イタリアやギリシャなどのヨーロッパ系の移住が認められたのでさえ第2次世界大戦後です。黄色人種は旅行での訪問はともかく、移住には厳しい制限があり昔から住んでいる有色人種の人たちも平然と差別を受ける国、それがほんの少し前までのオーストラリア社会だったのです。第二次世界大戦で日本とオーストラリアが戦ったことをご存知でしたか?日本軍は北オーストラリアのダーウィンという町に爆弾を落としビルマでは捕虜にしたオーストラリア兵士をビルマ鉄道建設の過酷な労働に従事させました。特に捕虜虐待への反発は大きく、戦後オーストラリアでは反日感情が渦巻き日本人は“JAP”と呼ばれ蔑まれ嫌われていました。日本の敗戦後、アメリカの進駐軍が日本各地に滞在したのは周知の事実ですが実は、オーストラリアの軍隊も英連邦占領軍として広島の近くの呉を拠点に滞在していました。その呉のベースキャンプで、一人のメルボルン出身の18歳の兵士がメイドとして働きに来ていた17歳の日本女性と恋に落ちました。最初は彼のことを「大きくて怖い。」と思った彼女もしだいに彼の優しさに惹かれるようになり二人は軍の規則では禁止されているデートを軍事警察の目を盗んでは繰り返します。真剣に愛し合った二人はオーストラリアの法律では認められていない結婚式を日本の神社であげ、やがて子供を設けます。が、間もなく彼には帰国命令が。泣く泣く国に帰った彼。そこで、二人の関係は自然消滅し、子供は私生児に。。。よくある話ですが二人の場合はそうはなりませんでした。彼は「あいの子」を生み、日本で差別されている天涯孤独の妻を思い、オーストラリアからミルクや食料を送り続けました。そして白豪主義を掲げるオーストラリア政府に嘆願書を書き続け、メディアに窮状を訴えました。当時のコウウェル移民大臣は「日本人の足でオーストラリアの海岸を汚されることは許さない。」と厳しいコメントを述べ、オーストラリアの世論は真っ二つに分かれました。「敵国日本人の女を連れてくるなんて、とんでもない!」「結婚した二人を隔てるのはキリスト教の精神に反するのではないか。」幸い日米関係が親密化してきた国際情勢も有利に働き申請してから4年後の1952年、オーストラリア政府はついに日本人の移住を認める法律を可決させました。こうして日本人戦争花嫁第1号、チェリー・パーカーさんは二人の娘と共に、夫の国、オーストラリアの土を踏むことができたのです。チェリーさんの来豪は当時のメルボルンの新聞にも大きく報じられました。チェリーさんの来豪を皮切りに、その後、およそ700人の日本人戦争花嫁がオーストラリアの夫の元へ移住して来ることになりました。チェリーさん達戦争花嫁の方々にとって、オーストラリアでの暮らしは今とは比べ物にならないくらい厳しいものであったと思います。言葉、習慣の違いに加え、日本人であることへの差別や嫌がらせもあったでしょう。もちろん日本食も手に入らず、ビールとパンで漬物の糠を作ったり、スパゲッティでうどんを作ったりしたという話を聞いたことがあります。日本は文字通り「遠くにありて思う」だけの故郷であったのでしょう。チェリーさんは7人の子供を生み、20数人の孫、ひ孫に恵まれ今は夫のゴードンさんと二人、メルボルン郊外の緑豊かな住宅地で静かに暮らしていらっしゃいます。私は昨日、夫とお二人のお宅をお訪ねし、チェリーさんの手料理をご馳走になってきました。実は私の留学時代の専門は日豪関係史で、その時にオーストラリアの戦争花嫁に興味を持ったのがきっかけで、チェリーさんと知り合いそれ以来、親戚のようなお付き合いを続けさせていただいているのです。私たちの結婚式にも来ていただいたし、お二人の結婚50周年のパーティにも参加させていただきました。会う度に暖かいハグで迎えてくれて、こちらが恐縮するくらい歓待してくださるチェリーさん。そばで優しい眼差しでチェリーさんを見守るゴードンさん。豪日国際結婚大先輩のお二人は私の心から尊敬するカップルです。豪日カップルがうまく行くことをオーストラリア社会にお手本として見せてくださったチェリーさんとゴードンさん。お二人に心から感謝すると同時にいつまでもお元気でお幸せでありますよう、心から願っています。