さて、イエスにさわっていただこうとして、
人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。
ところが、弟子たちは彼らを叱った。
イエスはそれをご覧になり、
憤って、彼らに言われた。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、
彼らの上に手を置いて祝福された。
聖書(マルコ10:13~16)
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弟子たちはなぜ子どもたちを叱ったのでしょう。
子どもはうるさい?
大人たちのじゃまになる?
弟子たちの反応は、
どこでも見られる普通の反応なのかもしれません。
けれどもイエスさまは、
逆に激しく弟子たちを叱りました。
「憤った」とあります。
これはとても強い表現。
それほどまでにイエスさまは厳しく弟子たちを叱ったのです。
イエスさまの目線は、
弟子たちと違いました。
小さい者、弱い者にきちんと目を留めて、
決して軽んじない、
むしろ彼らを大事にしようとする、
それがイエスさまなのです。
さて、イエスさまは、
「子どものように」と言われました。
「神の国はこのようなものたちのもの」だとも。
原語を見ると、「神の国は子どもたちのもの」と、
もっと直接的です。
生き方における子どもとおとなの違いはなんでしょうか。
それは、おとなは自分の力で生きていける。
しかし、子どもはひとりでは生きていけない。
誰かに頼らなければ生きていけない存在です。
これを神さまとの関係に照らし合わせてみましょう。
「子どものように」
つまりそれは、
神さまを頼って生きていく、
神さまなくしては生きていけないと知っている、
そのようであることをイエスさまは求めているのです。
最後に
「子どものように神の国を受け入れるものでなければ」
が指している「神の国」とは何なのか、
考えてみましょう。
「神の国」は将来約束されている
天国だけを指しているのではありません。
それは今すでに始まっているのです。
私たちは今も「神の国」に頼りながら生きているのです。
そう、「神の国」とは「イエスさま」そのものです。
今、子どものように神の国を受け入れる人こそが、
将来の神の国を約束された人なのです。
子どもを抱きしめて祝福されたイエスさまは、
子どものようにイエスさまを受け入れる人を
愛し、祝福して下さいます。
この聖書の箇所に表現されている祝福は、
原語によると、特別な祝福です。
形だけじゃない熱烈な祝福を表しているようです。
子どものように神の国を受け入れる人でありたいですね。
(説教者:パパ)