7/2 家庭礼拝
「神に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めたときに、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」(創世記18:14)アブラハムは、普段から旅人をもてなすよう心がけていたのだろう。その日も、遠くに3人の人を見かけると、駆け寄って行って迎え、丁寧にもてなす。ところが、この3人、ただ者ではない。第一に、妻サラの名を知っていた。この当時、妻はお客に顔を見せない習慣があったようだが、「あなたの妻サラはどこにいますか。」と、問いかけたのだった。思わぬ問いかけに、天幕にいたサラも聞き耳を立てることになる。第二に「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子ができている。」と、これまた具体的な未来を告げる。これには、天幕でこっそり聞き耳を立てていたサラも驚き、思わず、心の中で笑い、つぶやく。「老いぼれてしまった私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」この「楽しみ」とは、性的な楽しみを意味していたらしい。実は、口に出しては言えないような下品で、アブラハムに対して失礼な言い方。そして第三。この旅人たちは、サラの心の中を見抜く。「サラはなぜ『私は本当に子どもを産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。」少し言い換えているのは、サラやアブラハムを辱めないようにとの配慮。そして、冒頭のみことば。「主に不可能なことがあろうか。」実はこの3人の旅人、神ご自身と二人の御使いだったのだった。神の全能を知ること。これこそが、アブラハムだけではなく、サラにも求められたことだった。サラの名を呼び、サラの嘲笑と、その心の奥にある失望を見破った主は、これらのことを通して、サラに教えたかった。「神の全能」を!私たちの生活の中で、いつも問われ続けていること。それは、「神の全能」今のこの現状を打ち破ることのできる神の全能を信じることが出来るか。この点において、聖霊によって救い主イエスを身ごもると告げられたマリヤの答えは、すばらしかった。「おことば通りこの身になりますように。」今回はサラの信仰の未熟さが取り扱われた。しかし、神のお取り扱いのなんとやさしいこと!下品とも言えるサラの心の中のつぶやきをあらわにすることもなく、サラの不信仰によってさえも、子どもを与えるという約束を変えなかった。そして、神の約束したとおり、一年後に男の子が与えられる。名は「イサク」。「笑う」の意味。サラは、イサクを呼ぶたびに、神のことばを笑った自分にさえ、子を与えた下さった主のあわれみと真実を思いだしたことだろう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回はサラが取り扱われたと言うのが、ちょっとチャレンジだった。うちの場合、牧師は主人で、教会のことも、家庭のことも、最終的な決断は主人、責任も主人にあるわけで、私は、お気楽専業主婦~とまでは言わないけど、実は、かなりお気楽にやってる。でも、神さまは、私の信仰だって見ている。私の名を呼び、私の心の内を見、私の信仰を引き上げようとしてくださっている。夫婦は一つだけれど、信仰は、それぞれで、それぞれに取り扱ってくださっている。主人の信仰に便乗します、とか、主人が祈っててくれるから、とか、そんなことは言えないのですよね。アブラハムとサラの信仰が一つになって、初めてイサクが与えられた。夫婦の信仰が一つになったときに、神さまは、初めて私たちを用いることができる。もうちょっと、ちゃんとしなきゃ!!