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カテゴリ:国内の旅
◆旅の回顧録(2)◆ 鹿児島・その2
鹿児島2日目は、鹿児島市内から路線バスに乗って知覧町へ向かいました。知覧で有名なものといえば知覧茶、武家屋敷、そして特攻隊の資料館があります。私はその特攻平和会館を見学するために知覧へ向かいました。 知覧へ向かうバスは田舎の普通の路線バスでした。観光客らしき人は乗っておらず、地元の方ばかりのよう。私の隣に座ったおじいさんは知人らしき人と話をしていましたが、その鹿児島弁での会話がまるで聞き取れません。やっと聞き取れた言葉は、バスが停車しないうちに立とうとして、運転手さんに注意されて 「はい、はい」 との返事だけでした。ある意味バイリンガルですね。 そして知覧に到着。地図を見るとバスの終点から特攻平和会館までちょっとした距離があります。タクシーは止まっているけどもったいないので歩くことにしました。8月の終わりとはいえども、日差しは強いし、帽子をかぶっていなかったので水分補給をしながらひたすら歩いていきました。平和記念会館までには、特攻隊員をレリーフにした石燈篭が道路の両脇に立っていました。 最後の坂を上ると平和記念会館です。記念会館、平和観音堂へ続く道は桜並木でした。夏だから葉桜だけど…。そして特攻平和記念会館へ。中へ入ると、ロビー正面には天女たちが特攻隊員の魂を衝天させようとしている大きな絵が飾られています。 ここで少し、特別攻撃隊とは… 『第2次世界大戦中、薩摩半島の知覧には陸軍の特攻基地がありました。昭和20年3月、最悪の戦局を迎えた軍部は、劣勢を挽回する策として特別攻撃隊を強化しました。その基地に選ばれたのが沖縄に最も近い本土最南端の飛行場がある知覧でした。 特攻隊員のほとんどは17歳から22歳ぐらいの若者たちでした。隊員たちはわずかの滞在で沖縄へと出撃していきました。飛行機の胴体に爆弾をつけ、片道だけの燃料で飛び立って敵の空母や戦闘機に体当たりしていきました。 知覧を飛び立って亡くなった隊員は436人でしたが、基地は万世、都城、台湾、熊本、鹿屋、太刀洗にもあり、総勢1035人の若者が特攻隊で命を落としたといいます。』 ※参考:「知覧特別攻撃隊」 村永薫編 平和会館の中に入ると、隊員たちの遺品や遺書が展示されています。この展示場内にいる人たちは、ご年配の方が多く、みなさん涙を流していました。特に遺書は達筆で、20代前後の青年たちが書いたとは思えません。書きたいことも十分に書かれないご時世だったけど、親や家族を想う気持ちでいっぱいだったと思います。隊員たちの写真も展示されているのですが、その表情もすがすがしく笑顔のものもあって、とてもこれから死ににいく人の顔には思えませんでした。 ありきたりの感想しかかけませんが、何事も命あってのことだし、自ら命を絶つことを考えたり死にたいなんて思うことは、生きたくても生きられなかった人たちに申し訳ないなって思います。自分だけの命って考えがちですが、その命は親からいただいたものだし、命を粗末にしては親にも申し訳ないって思います。 特攻隊員の遺書の中に、 『俺が死んだら 何人泣くベ』 というものがありました。きっと、彼のご両親、親戚、友人たち、仲間、みんな泣いたにちがいありませんよね。 たくさんの方に見ていただきたい博物館です。私も鹿児島へ再び訪れることがあれば、また必ず行こうと思っています。 特攻銅像「とこしえに」。 最近読んだ本です。筆者は串良の特攻の生存者です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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