|
カテゴリ:国内の旅
■秋の京都&奈良の旅-その10■(→その1、2、3、4、5、6、7、8、9)
秋の京都と奈良はお宝の宝庫です。いろんなお寺で秋の特別拝観や公開を行っています。九州に住んでいるとそんな情報はどこから入るでもなく、現地に行って初めて知ることが多いわけで、あまり計画性のない私が突然思い立って行って、あ~、あれも見たい、これも見たいで終わってしまうことが非常に多いです。で、興福寺もここへ来て特別公開があることを知ったわけで…ラッキーってことで。 乾漆八部衆像(国宝)は、光明皇后が母の橘三千代の追福のために発願、創建された興福寺西金堂に安置されていました。西金堂は1717年に焼失しましたが、八部衆像は奇跡的に救い出されました。現在は国宝館に安置されています。普段は入れ替わりで4体ずつしか見られないそうですが、特別公開では8体すべてを一度に見ることができるのです。 八部衆とは、五部浄(ごぶじょう、胸から下は欠失)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦桜羅(かるら、この像はお気に入り♪)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)のことです。すべての仏様に特徴があって、それぞれ興味深いのですが、人気者はやっぱり阿修羅像でした。八部衆像の前は人だかりなのに、阿修羅像の前を過ぎたらなぜかスムーズに前進できたから不思議。太陽神ともいわれ、帝釈天とも戦う悪魔ともされたミステリアスな阿修羅はやっぱりどこか魅力的なんでしょうね~。私は小学生の時に読んだ萩尾望都の漫画、「百億の昼と千億の夜」の少女のような阿修羅が忘れられません。 この国宝館は八部衆像だけでなく、国宝、重要文化財の仏像がすごいんです。中でも見ることができて感動だったのが、山田寺仏頭です。この仏頭がなぜ興福寺にあるのかという理由が書かれた本を、偶然にも最近読みました。 「大化改新の謎」関裕二 その本によると、山田寺は中大兄皇子に謀反の疑いをかけられ討たれた、蘇我倉山田石川麻呂の菩提を400年間弔ってきました。治承4年(1180)、南都の焼き討ちにあって興福寺は全焼しました。そこで興福寺の僧兵たちは本尊を物色し、山田寺に目をつけて仏像に縄をかけて興福寺に運び、東金堂に据えつけてしまいました。この仏像は石川麻呂の三十七回忌に開眼が行われたものでした。 しかし、応永18年(1411)に興福寺は火災に遭い焼け落ちてしまいました。山田寺の仏像も焼けましたが、奇跡的に残ったのがこの仏頭だったのです。謀反の疑いで討たれた石川麻呂の頭は塩漬けにされたという説もあります。石川麻呂の娘で中大兄の妻であった遠智娘(おちのいつらめ)は父親の死後、気が狂ってしまいましたが、この塩漬けの生首を見てからではないか…という推測も本に書かれていました。仏頭だけが残ったのは、石川麻呂の首の執念かも知れませんね。でも、仏様の表情はそんな背景があるとは思えないくらい、美しく安らかなものでした。 国宝館の後は大圓堂へ。ここでは重要文化財の聖観音菩薩立像が特別公開されていました。13世紀後半以降の作と伝えられています。小さな仏様で、拝観者も多いものだから、ちょっと見て、説明を受けて…とそういう感じであまり印象がなかったです。秘仏らしいのだけど…。庭には薮内佐斗司氏による「七福神童子」というかわいらしい彫刻が展示されていました。 そして最後に行ったのが北円堂(国宝)の特別開扉。 興福寺北円堂は、養老5年(721)に興福寺の創建者である藤原不比等の一周忌に、元明・元正天皇(この2人は母娘)が長屋王に命じて建てさせました。1180年に火災で焼失し、現在の建物は1210年頃に再建されたものです。ここには運慶の晩年の代表作である弥勒如来像(国宝)、法苑林・大妙相菩薩半跏像、運慶の作で、日本の肖像彫刻のなかで最高傑作といわれる無著・世親菩薩像(国宝)、四天王立像(国宝)が安置されています。 無著(むちゃく)菩薩像は最初はピンとこなかったのですが。ポスターの像の写真を見て、日本史の教科書で見たことのある有名なものだったのですぐにわかりました。無著と世親(せしん)は5世紀の頃、北インドで活躍した兄弟の学僧で、興福寺の法相宗の宗義を事実上まとめあげた人です。端の方にあるので、国宝館ほど参拝客はいませんでした。これを見ないだなんて、なんてもったいない…。 というわけで、仏像三昧で満喫の奈良の1日でした。次回は突然現れた、奈良のとてもかわいい神社を紹介したいと思います。 つづく♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|