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カテゴリ:地図
千波湖は現在の4.88倍だった 幕末の測量図もとに新説(東京新聞)
水戸駅の南に広がる千波湖が、幕末には現在の4.88倍の面積あったことが分かった。 茨城大学の小野寺淳教授(歴史地理学)の研究結果によるもので、これまでは現在の3.8倍と紹介されていたが、実測を基にした「千湖分間全図」(せんこぶんげんぜんず:1855年)が見つかり、現在の地図と照らし合わせることで判明した。 千波湖は元来今の中心市街地がある台地を挟み、北側を流れる那珂川の氾濫などによって生成された浅い沼と考えられてきた。 江戸時代初期に水戸藩が城下町を建設した際に、城を守る堀として位置づけられたことで整備が進んだとされている。 その時代から少しずつ湖岸が干拓されていたが、大正時代に水質が悪化したことから水戸駅南側で大規模な干拓を実施、太平洋戦争からの復興後には現在の33万2000m2の広さになったという。 これまで新旧の千波湖の広さを比較する史料として参照されてきたのは「水府志料」(すいふしりょう:1807年)という文献だが、水府志料には測量図がなく、面積として現在の約3.84倍に相当する38万6364坪(127万5000m2)という記述があるのみ。 これを小野寺教授は根拠が分からない点から疑問視しているという。 千湖分間全図は水戸市の千波湖土地改良区が所有していたものを、保存・活用のため2014年に市立博物館に寄託したもの。 小野寺教授は千湖分間全図がつくられた目的は不明としながらも、当時としてかなり正確な測量図であり、信頼性は水府志料より高いと分析しており、これ以上の史料があるとは考えにくいことから、現在と幕末の比較は4.88倍が定着することになると見ている。 明治の時点の千波湖については迅速測図や旧版地図で分かるが、幕末(あるいはそれ以前)との比較は史料が頼り。 そんな中で測量図が出てきたのは大きい。 土地条件図では明治期の千波湖の跡が埋土地で、その周辺は盛土地が広がっている。 千湖分間全図からは、この盛土地の部分の一部にも千波湖が広がっていたのではないかと推測できる。 埋土地が現在は普通に市街地になっているのも気になるところ。 そこにいる人々が土地の性質や履歴をきちんと把握しての上でなら問題ないのだが。 <千波湖周辺:明治36年測量の旧版地形図(左)と現在の地理院地図(今昔マップより)> <千波湖周辺:土地条件図(地理院地図より)> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.08.26 10:58:53
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