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シネマに賭けた青春「夢を追いかけた日々」の想い出

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大西俊郎@ リンク了解しました 中々凝ったブログですね。勉強になります。
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カテゴリ:ア~オ

エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・プレスリー、今や彼の名は神格化されてしまっている。ロックンロールの王者としてであろうか、それとも生き様であろうか。それとも・・・。

エルヴィスはその名前をもじって、ペルヴィス(骨盤)というあだ名がついていた。独特の官能的なあの腰のくねりにしびれた女性も多かったと思える、いやそれよりも、女の体をやさしく、そっと愛撫していくようなあの声に官能を揺すぶられた女性は限りなく多かったことだろうと思う。


彼は1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロに生まれた。双子として生を得たが、一方が死産だったため、一人息子として母親に溺愛されて育った。

エルヴィスは11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手となる。

たまたま吹き込んだ自前のレコードがRCAの目にとまり、エルヴィスは1955年11月21日にRCAレコードと契約。ラツ腕のマネージャー、トム・パーカー大佐の手で、アイドル歌手として育てられた。

1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」でTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこで彼は白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、エルヴィスのファンになっていった。

映画では32本の映画出演作全てが主役という驚異的な記録を残している。最初の映画は「やさしく愛して」で次いで「監獄ロック」「ブルーハワイ」「闇に響く声」と作られた。

   

1958年1月20日に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間。彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。エルヴィスは軍在籍中に、空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。

退役後、彼は「GIブルース」「カリフォルニア万才」「ガール!ガール!ガール!」「ハレム万才」など、数多くの青春映画に出演した。

    

ナンバー1ヒットは全18曲、合計80週間である。曲数はビートルズに次ぐ歴代2位。週間数に関しては歴代1位である。ちなみに2位はマライア・キャリーの79週。(ビルボードに準拠)。ハートブレイク・ホテルは1956年 8週間連続1位を記録している。

1967年5月1日には、ラスベガスでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。

4年後、結婚前から続いていたエルヴィスの生活習慣(昼と夜が逆転した生活、メンフィス・マフィアという名のエルヴィスの取り巻きといつも一緒の生活)、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活など、さまざまな理由から、彼女は空手教師のもとに走り、二人の結婚生活は破綻。要するに寂しさに耐えられなかったのだろうと思う。

グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンジェルスに住居を移し、1973年10月9日に正式離婚した。

離婚後もエルヴィスとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。エルヴィスがツアーでロサンジェルスにいるときは、彼女の家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。

二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、二人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていたという。このあたり、エルヴィスは人間的にもよく出来た男だったと言えるのではあるまいか。

彼にもスランプはあった。精神不安定、それに肥満も重なり、再起不能説も流れた。だが、エルヴィスは不死鳥のように甦った。70年のライブ映像「エルヴィス・オン・ステージ」が世界的にヒットしたのである。



好事魔多し、彼は1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで突然死。死去する日の早朝も趣味のラケットボールを友人たちとプレーし、汗を流したという。死因は”ハートアタック”だった。享年42歳、若すぎる死であった。運命の女神は待ってくれなかったのである。





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Last updated  2009.09.23 15:31:44
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