イヴ・モンタン 夢を追い求め挑戦し続けたフランスの名優
イヴ・モンタン/イヴ・モンタン全集~枯葉イヴ・モンタン、彼の心は新人歌手のように熱く燃えていた。13年ぶりのロングリサイタル、しかも60歳の老齢だった。「今夜のショーでは新曲を披露して、聴衆に新たな感動を与えたい」1981年10月、60歳のイヴ・モンタンは新人のような不安と期待を胸に、パリ、オランピア劇場の舞台に立った。満員の聴衆を前に、モンタンは歌い始めた。”自分の歌など、もう忘れ去られてしまったのではないか・・・”、そんな不安は瞬く間に消し飛んだ。万雷の拍手が彼を包んだのだ。イヴ・モンタンは1921年10月13日、イタリアで生まれた。本名イーヴォ・リーヴィ(Ivo Livi)。イヴ・モンタンという芸名は、子供の頃、戸外にいた彼を母親が階上から、「イーヴォ、モンタ!」(Ivo, monta!, イーヴォ、上がってきなさい!)と呼んでいたことにちなむという。ムッソリーニ支配下の故国を逃れ、一家でマルセイユに移住、26年、フランスに帰化した。一家の生活は苦しく、始めて間なしの父親の会社は倒産、モンタンは11歳で製麺工場で働き、その後、サンドイッチ売りやトラックの荷積みなどをして、青春期を送った。彼の唯一の楽しみは、週末に映画館やミュージック・ホールへ出かけることだった。そして、楽しみはいつしか憧れに変わっていた。ある日、野外劇場で歌う素人たちを冷やかしていたモンタンを、兄がこう叱責した。「同じことがお前に出来るのか? できないなら黙ってろ」この言葉は、17歳のモンタンを奮い立たせた。それくらい俺にもできる・・・。彼は猛特訓を開始した。そして39年にはミュージック・ホールやカフェで歌い始め、舞台で熱唱する彼の名は、瞬く間にマルセイユで評判になった。そして、その噂はパリにまで届いた。44年の某日、パリのムーラン・ルージュのがらんとした舞台で、モンタンは一人の女性の視線にさらされていた。20世紀を代表する歌姫、エディット・ピアフだった。当時、28歳のシャンソン歌手ピアフが、22歳のモンタンの実力を聴こうと彼を呼び出したのである。彼は臆することなく歌った。その歌声は歌姫を感動させるに充分だった。ピアフは自分の主演作「光りなき星」に早速端役でモンタンを起用、2作目「夜の門」では「枯葉」を挿入歌で歌わせた。ムーラン・ルージュの出会いから二人は恋に落ちていた。富と名声、モンタンの望む物全てを与えてくれる歌姫は理想の女性といえた。しかし、46年、二人の関係は2年で破局を迎えた。次に出会ったのが、女優のシモーヌ・シニョレ。シモーヌには家庭があったが、二人は愛を貫き、51年には晴れて夫婦となる。ピアフの支援で映画デビューしたモンタンだったが、52年製作の「恐怖の報酬」に主役で出演、これがカンヌ国際映画祭グランプリを獲得した。こうして彼の役者としての地位は不動のものとなったのだ。 恐怖の報酬「恋をしましょう」ではハリウッドのミューズ、マリリン・モンローと共演、モンタンは題名通りマリリンと恋仲になってしまった。そのせいで妻のシモーヌは自殺未遂まで起こす始末、幸い離婚にまでは至らなかったが、夫婦仲に大きな亀裂を残した。その他には「愛と宿命の泉 PART1」「さよならをもう一度」「晴れた日に永遠が見える」などがある。 幅広い演技で注目され、いつもリラックスムードを漂わせていたモンタンだが、その素顔は徹底した完璧主義者で、いかなる場面でも努力と緻密な計算を怠らなかったという。こうして死の直前まで努力し続けた老雄は1991年11月9日、黄泉の国へ旅立った。享年70歳だった。息子が一人いる。