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ジーナ・ロロブリジーダ、彼女は終戦間もない荒廃したイタリアの街で、アメリカ占領軍の兵士たちの求めに応じ、似顔絵を描く18歳の美術学校生だった。その収入で苦しい家計を支えていた少女は、ある日、街角で映画プロデューサーの目にとまるのだ。
彼女は1927年7月4日、イタリアのスビアーコ出身。混乱のローマで端役から女優として羽ばたいたジーナは46年のデビューから6年後の52年、25歳でチャンスを掴んだ。 「この映画とともに、私の人生の道は開けたのです」 この映画、それはフランス映画「花咲ける騎士道」(52年)だった。当時のフランス映画界を代表する二枚目俳優ジェラール・フィリップの相手役に抜擢されたのだ。 18世紀のフランスを舞台にしたロマンの香り豊かな時代活劇は大ヒット、輝くばかりに美しい姿態と天真爛漫な明るさを画面いっぱいに振りまいた”イタリア娘”ジーナは、観客を魅了した。 パリには「ロロブリジーダ」旋風が巻き起こり、ジーナは”ロロ”の愛称で呼ばれ、一躍スターになったのである。更に同年、名匠ルネ・クレールの「夜ごとの美女」で、再びフィリップと共演、夢の中に現われる絶世の美女を演じてファンを熱狂させた。 私もこの作品に熱くなった一人だ。あんな美女に一度でいいから夢で逢いたいと思ったものだが、会えなかったのは残念だ。 そして、翌53年にはイタリア映画「パンと恋と夢」で、名優ヴィットリオ・デ・シーカを相手に気の強い村娘を演じて、評判になった。 程なくジーナはハリウッドに呼ばれ、ジョン・ヒューストン監督の「悪魔をやっつけろ」に出演。他に「9月になれば」「ソロモンとシバの女王」などがある。 アメリカでもジーナの人気はすさまじかった。 「みんなは私のことをアメリカのロロブリジーダと呼ぶのよ」 54年、ジーナにこう語ったというのは前年「ナイアガラ」でモンローウォークを披露し、センセーションを巻き起こしていたマリリン・モンローだった。”ロロ”人気はそれほど高かったということだろう。 しかし、70年代に入り、40代になったジーナは映画界と距離を置き、自分の夢を追うようになる。それは写真の世界であった。彼女は著名人や庶民のありのままの姿を捉える写真家として活動を始めたのだ。 ”小麦色のヴィーナス”と云われたイタリアの国民的女優は、その芸術的感性を発揮し、自己の美を表現して行ったのである。 46歳で写真集「私のイタリア」を出版、写真展がニューヨーク、パリ、モスクワ、東京などで開催された。 1961年、ゴールデングローブ賞で「世界でもっとも好かれた女優」賞を受賞し、レジオンドヌール勲章まで貰っている。 私生活では21のときから彼女を支えてきた医師の夫ミルコ・スコフィチがいたが、71年に離婚している。美貌の容色もいささか衰えたが、82歳の今も健在だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.10 09:34:13
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