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ジャンヌ・モロー、彼女はルイ・マル監督の処女作「死刑台のエレベーター」で大きな目と分厚い唇の”素顔”をスクリーンにさらした。その目はあやしい光を放ち、厚い唇は官能美の象徴となった。 死刑台のエレベーター 恋人を探し求めて夜のパリの街をさまよう人妻フロランス。光と影が交錯する妖しく美しい画面に、マイルス・ディヴィスのモダン・ジャズの乾いた響きが流れる。焦燥感を煽るこのシーンを覚えておいでの方は多いことだろう。 「ルイ・マルは私の顔からメイクを洗い流し、これまでとは違う”魔女”を生んでくれたのですーー」 この1作で醜いアヒルの子ジャンヌは”ヌーヴェル・ヴァーグのヒロイン”に躍り出たのだ。29歳のときだった。 彼女は1928年1月23日、パリで産声を上げた。モンマルトルでレストランを経営していた父アナトールは、目が大きく、唇のぶ厚い赤ん坊に落胆を隠さなかった。ジャンヌは”醜いアヒルの子”だった。 平凡な結婚こそが女性の幸せと信じる厳格な両親に育てられた彼女は、第二次世界大戦終結の翌年、父により豪商の息子との結婚を決められた。しかし、式を翌日に控えた彼女は婚約指輪をローヌ川に投げ捨て、夜行列車に飛び乗った。密かに抱き続けた女優になる夢を実現するために・・・。 結婚をやめたこの年、46年の10月、コンセルヴァトワール(国立高等演劇学校)に入学、演技を2年間勉強した後、モリエール劇団に入り、頭角を現す。そして20歳の誕生日、コメディ・フランセーズの最年少女優としてツルゲーネフの「田舎の一日」で初舞台を踏んだのであった。 やがてジャンヌは舞台から映画へと進出、だが、情婦役など男優の添え物に過ぎなかった。それでも彼女は腐らなかった。転機が訪れた。それが「死刑台のエレベーター」だったのだ。 彼女は57年当時、舞台俳優ジャン=ルイ・リシャールと結婚しており、9歳の一人息子がいたが、4歳年下のマルと暮らし始めた。マルの監督2作目になる「恋人たち」では、赤裸々なベッド・シーンも演じた。マルの要求に応えることが、彼女の愛の証だった。だが彼は撮影が終わると”普通の女”であることを求めた。ジャンヌは彼のもとを去った。 ヌーヴェル・ヴァーグの全盛期、62年にフランソワ・トリュフォ監督の「突然炎の如く」に出演したジャンヌは、2人の男を愛する女を演じ、彼女はまたも4歳年下のトリュフォの才能に恋をして、ありったけのお金を工面して作品の完成に協力した。 だが、この恋も長くなかった。やがて35歳のジャンヌは、人気デザイナー、ピエール・カルダンとの恋にのめりこむ。「カルダン」を身にまとったジャンヌはパリジェエンヌの憧れの的になった。 スクリーンで演じた女たちをそのままに、”燃えさかる炎”を追い求めたジャンヌ、それが残酷なまでに純粋な愛を求め続ける現実のジャンヌでもあったのだ。 彼女の出演作品は100本を軽く越える。名作、佳作と呼ばれる作品だけをピックアップしておこう。話題作「黒衣の花嫁」、「雨のしのび逢い」「夜」「愛人/ラマン 最終章」など、とても書ききれない。 私生活では、1948年に俳優のジャン=ルイ・リシャールと結婚したが後に離婚。1977年に映画監督のウィリアム・フリードキンと再婚したが、1979年に離婚している。現在81歳の高齢ながら健在だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.14 13:45:51
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