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シネマに賭けた青春「夢を追いかけた日々」の想い出

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カテゴリ:ア~オ

◆一生涯保証付◆[直筆サイン入スチール写真] ウディ・アレン Woody Allen (タロットカード殺人事件など)

ウディ・アレン、彼は 監督、脚本、主演の三役をこなして成功した映画人の一人である。彼の他には、チャールズ・チャップリンとオーソン・ウェルズがいるだけだと言われている。その作風も実に幅広いように思える。

もう古い作品になるが、「カイロの紫のバラ」を見た。生活に疲れた主婦がスクリーンから飛び出してきた映画の主人公と現実世界で恋をするという、奇想天外なお話だ。

カイロの紫のバラ

映画ファンなら誰でも一度は夢に見ることを、実現させるというところなど、さすがにアレンらしいなと思わせる。有り得ないことを有り得るように見せる才能は大したものである。


彼は1935年12月1日、ニューヨークのブロンクス区で、東欧・ユダヤ系の家庭に生を受けた。父親のマーティン・コニグスバーグと母親のネティー・チェリー・クローネンバーはアレンが生まれてから妹のレティが生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。彼の両親はきっと引越し魔?だったのであろうか。

その間、母親の姉妹たちや、ナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされたそうである。

そのためアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的にも落ち着かないものだった。また、母親はアレンに対しては厳しく、妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンはいつしか、愛されているという感情が持てなくなってしまった。

ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになった。

パブリック・スクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「レッド」と呼ばれた。アレンはカード・マジックに興味を持ち、それに傾倒した。

16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏んだが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけ、徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになっていった。

1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学、映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートはコメディ風といった調子で、中退してしまう。

ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、アレンのさぼり癖はおさまらず、またもや中退、母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考え、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押ししてくれた。

バロウズはアレンの才能を高く買い、数人のテレビ司会者を紹介、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディを両立させる必要性を説いた。

アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになり、『パット・ブーン・ショー』などに参加、次第に人気を得る。

アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始め、『ブルー・エンジェル』での初舞台は酷評だったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げ、人気者になっていく。

そして、63年、映画界に身を投じたのである。アレンの作品は、フランスや日本など国外において非常に高い評価を受けており、一部の作品を除いてアメリカ国内における興行成績は決して高くはない。

それにもかかわらず、彼の人柄からか多くの人気俳優や女優が競って出演することが多い。

アレン作品の数々を覗いて見よう。

さよなら、さよならハリウッド バナナ重罪と軽罪

アレンは、ハリウッドに背を向けた映画人としても知られている。「アニー・ホール」(1977年)で、アカデミー監督賞、最優秀作品賞を受賞した時も、授賞式には出なかった。

アレンが唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときだけである。それは9月11日のテロで犠牲になった人たちに捧げるオマージュとしての企画で、彼は出演したものの、それが終わると直ちにニューヨークに戻ってしまった。

それにも関わらずアレンがアカデミー賞にノミネートされたのは21回、最多の回数である。アカデミー協会がアレンの才能の煌めきを認めているからであろうと思える。

彼の他の作品にはまだまだ見るべきものは多い。「ウディ・アレンの影と霧」「ウディ・アレンの愛と死」「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」「スターダスト・メモリー」など傑作が多数ある。

   

私生活では映画で共演したダイアン・キートンと付き合っていたものの、長く続かず、その後、ミア・ファローと同居するようになるが、彼女の養子の韓国人女性スン・イー(当時21歳)との交際が発覚し、ミアから訴訟を起こされたこともあったそうである。

アレンとスン・イーはその後結婚し、女の子二人を養子にしている。彼はまだ74才、これぞ映画という作品を見せてもらいたい。





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Last updated  2009.12.26 17:57:14
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