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オリビア・ニュートン・ジョン / Gold 輸入盤 【CD】
オリヴィア・ニュートン・ジョン、彼女の登場は実に新鮮だった。ジョン・トラヴォルタと共演した「グリース」だ。学園物ミュージカルだが、オリヴィアの存在はなんとも可憐だった。 歌はもう抜群、トラヴォルタとの掛け合いもよかった。彼女の歌はしみじみと沁み込んでくるような感じであったと思う。のびのびと透明感のある歌唱は誠にハートウオーミングで聞いているだけで癒される気がした。 「グリース」 オリジナル・サウンドトラック+2 彼女は1948年9月26日、イングランド・ケンブリッジで生まれた。母方の祖父はドイツのノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。 5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。 クリフ・リチャードのバック・コーラスなど下積みの時期がしばらく続いたが、1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー『イフ・ノット・フォー・ユー』(If Not For You)がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。 1973年頃よりMOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル『愛の告白』(I Honestly Love You)が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。 1975年にアメリカに移住した後も『そよ風の誘惑』(Have You Never Been Mellow)などのヒットを連発。 女優としては1978年のミュージカル映画「グリース」でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも『愛のデュエット』、アカデミー賞歌曲賞候補となった『愛すれど悲し』、『想い出のサマー・ナイツ』が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターになった。 1980年の映画「ザナドゥ」に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲『マジック』、ELOとの『ザナドゥ』、クリフ・リチャードとのデュエット『恋の予感』がヒット。 「ザナドゥ」にはかってのミュージカル・スターであるジーン・ケリーも出演していたが、やはり年は争えないもの、見ているのがつらかった。 ザナドゥ トラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲『運命のいたずら』、『デスパレート・タイムス』といったヒットを挟み、アンディ・ギブと『愛は微笑みの中に』など、AOR系のデュエット曲を発表。 1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の『フィジカル』をリリース。全米でビルボード10週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録する(キャッシュボックスとラジオ&レコーズでは『フィジカル』は1位にならず、ビルボードで『フィジカル』に抑えられ2位どまりだったフォリナーの『ガール・ライク・ユー』が1位を独走していた)。 当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。 1985年のシングル『ソウル・キッス』がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。 その後、出産、乳癌手術などを経て、環境保護活動やがん啓蒙活動といった社会運動に取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。 1994年の音楽界復帰後は定期的なライブツアーを行なうほか、2000年のシドニーオリンピック開会式で「Dare To Dream」を披露した。 日本には1972年以降、度々来日しており、人気も高いようだ。その彼女も61歳、元気で頑張ってほしいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.18 11:23:16
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