|
カテゴリ:サ~ソ
シド・チャリシー、彼女の名は永遠に忘れないだろう。ハリウッド・ミュージカル史上に燦然と輝いた魅惑の女王として・・・。
数々のダンスシーンで(どれも素晴らしいが)極上の1景として推奨したいのは、「バンドワゴン」の公園でアステアと踊るシーンである。まさに絶妙の踊りであった。この場面はVTRのテープが擦り切れるほど見たと言っても過言ではない。 バンド・ワゴン 彼女は、1921年3月8日、テキサス州のアマリロで生まれた。兄弟からは“Sis”と呼ばれていた。彼女はロサンゼルスでバレエを学び、その後“Siderova”という芸名でバレエ・リュスに参加。 第二次世界大戦勃発後、チャリシーはロサンゼルスに戻り、コール・ポーター作のミュージカル映画 Something to Shout About のダンサー役で女優デビュー。 映画の振り付け師が、ジーン・ケリーを見いだした人物であったことから、チャリシーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーでミュージカル映画を専門に手がけるプロデューサー、アーサー・フリードの創作集団「Freed Unit」に参加することになった。 当時のMGMの二枚看板はフレッド・アステアとジーン・ケリーだったが、チャリシーはその二人の相手役をつとめる幸運に恵まれた。 チャリシーが初めてアステアと共演したのは、短編映画「ジーグフェルド・フォリーズ」(1946)。二度目の共演作「バンド・ワゴン」(1953)ではヒロインに扮し、彼女とアステアのダンスは絶賛された。 1957年、チャリシーは再びアステアと組み、「絹の靴下」に出演。これはグレタ・ガルボ主演映画「ニノチカ」(1939)のミュージカル版リメイク作品であり、彼女はガルボの有名な役を演じた。アステアは彼の自伝でチャリシーに惜しみない賛辞を送っている。 絹の靴下 ジーン・ケリーとは「雨に唄えば」(1952)で初共演し、「ブリガドーン」では準主役で出演。「いつも上天気」(1956)では、ケリーと並んで主役をつとめた。 1952年には、チャリシーの美しい脚に500万ドルの保険が掛けられて話題となった。この保険金額は、それまでのベティ・グレイブルの記録を抜いてハリウッド史上ナンバーワンとなったのである。 1950年代後半、ハリウッドのミュージカル黄金期に終焉が訪れ、チャリシーがダンスを披露することはなくなった。しかし、チャリシーはそれからも女優として、映画やテレビに出演し続けた。 7つの海底都市 チャリシーの活動は多岐に渡り、ブルー・メルセデスの I Want To Be Your Property (1987)とジャネット・ジャクソン Alright (1990)のミュージックビデオには、カメオ出演して話題を呼んだ。また、1990年には活動的な熟年層を対象にしたエクササイズビデオ「Easy Energy Shape Up」を発売した。 チャリシーは80代を迎えても現役であり、ハリウッドの黄金期を取り上げたドキュメンタリーに度々出演している。2001年には、ギネスブックの特集で「最も価値のある脚」の持ち主として取り上げられた。2006年には、アメリカ合衆国における文化勲章、National Medal of the Arts and Humanitiesを受賞した。 チャリシーは1939年にニコ・チャリシーと結婚し、長男を出産するも1947年に離婚。1948年に歌手のトニー・マーティンと再婚し、次男を出産。彼女は亡くなるまで、60余年の長きに渡ってマーティンの妻であり続けた。 彼女は2008年6月17日、ロサンゼルスの病院にて心臓発作で亡くなった。享年86歳であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.26 10:22:08
コメント(0) | コメントを書く
[サ~ソ] カテゴリの最新記事
|