|
テーマ:男優たちの華麗な酒盛り(277)
カテゴリ:ラ~ロ
ハロー・サッチモ、アゲイン!
ルイ・アームストロング、いくらジャズにうとい人でもこの人の名前を知らない人はいないだろう。”サッチモ”の愛称で呼ばれ、多くの音楽映画に出演、名演技を見せてくれた。 愛嬌のある表情と独特のしわがれ声のボーカルで映画の導入部を見事にこなした「上流社会」。『ハイ・ソサエティ』の軽快なメロディが、見事に映画の”ハッピーエンド”を予感させてくれた。 上流社会 そして夫婦愛が光る「グレン・ミラー物語」の一場面。グレンとヘレンの結婚初夜、待ち構えていた仲間たちがお祝いパーティに連れ出す。「コニーズ・イン」では出演中のルイがジーン・クルーパーやグレンをステージに招く。 「ジーン・クルーパーも来ていたのか、一緒にやらないか、ベイブ・ラッシンも。グレン、君も一緒にどうだ?」 ルイに声をかけられ、ステージに上がるグレン。ジーン・クルーパーのドラムソロから熱いジャムセッションが始まる。実に見応えのあるシーンだった。 グレン・ミラー物語 彼は1901年8月4日の生まれ。アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンである。サッチモ(Satchmo)という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。 サッチモという愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがある。その他、ポップス(Pops)、ディッパー・マウス(Dipper Mouth)という愛称もある。 アームストロングが生まれ育ったのは、ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区であった。 子供の頃に祭りで浮かれ、ピストルを発砲して少年院に送られた。その少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが、楽器との最初の出会いとなった。その後、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となった。 1923年、シカゴに移りキング・オリヴァーの楽団に加入。同年、初のレコーディングを行う。1924年にはニューヨークに行きフレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。この時期、ブルースの女王ベッシー・スミスとも共演。その後シカゴに戻り、当時の妻リル・ハーディン・アームストロング(ピアノ)らと共に自分のバンドのホット・ファイヴを結成。同バンドが1926年に録音した楽曲「Heebie Jeebies」は、ジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲として知られる。 1930年代にはヨーロッパ・ツアーも行う。第二次世界大戦時には慰問公演も行った。しかし人種差別が法的に認められていた当時のアメリカでは、公演先でも白人と同じホテルへ泊まれない他、劇場の入り口さえ別々というような差別を受け続けた。 1950年代には「バラ色の人生」や「キッス・オブ・ファイア」等が大ヒット。また、1953年には初の日本公演を行う。1956年にはエラ・フィッツジェラルドとも共演。1960年代、時代がビートルズを代表とするポップ・ミュージック一色となる中でも、「ハロー・ドーリー」はミリオン・セラーとなり、多くのアメリカ国民に受け入れられた。 1967年には、「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」が世界的なメガヒットとなった。1968年にはウォルト・ディズニー映画の名曲を取り上げたアルバム『サッチモ・シングス・ディズニー』を発表し、ジャンルに縛られない柔軟な姿勢を見せ付けた。 高い音楽性と、サービス精神旺盛なエンターテイナーぶりが評価され、映画にも多く出演した。作品にはフランク・シナトラやビング・クロスビーと共演した「上流社会」や「5つの銅貨」、「ハロー・ドーリー」、「ニューオーリンズ」等がある。 五つの銅貨 アームストロングは明朗な性格と高い音楽的技術をあわせ持つカリスマ的かつ独創的な演奏者であり、洗練されていない地方的なダンスミュージックをポピュラーな音楽形態であるジャズへ発展させた。トランペット奏者、歌手としても有名。 ジャズ界でも稀であるほどの天才トランペット奏者と言われ、ウィントン・マルサリスは「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」と賞賛。歌の方でもスキャットという手法を広めたことで知られ、マイルス・デイヴィスは「アームストロングは喋りまでジャズになっている」と語っている。 ジャズの天才と言われたルイも人の子、1971年7月6日、享年69歳で天国への階段を登って行った。世界中の人が彼の死を惜しんだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ラ~ロ] カテゴリの最新記事
|