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テーマ:1960年代英国音楽(54)
カテゴリ:60's
当ブログでは以前から1960年代後半のゴードン・ハスケルやシャロン・タンディについて度々取り上げてまいりました。その中で度々登場していたのが、当時彼らのマネージャーであり所属事務所代表でもあったフランク・フェンター氏。
彼の辣腕で、まだ若輩だったハスケルもデビュー直後という立場なのに、楽曲提供や数々のレコーディングセッション等で当時の新人としては良い部類の収入を得ていたというのがありました。セッションで稼ぐとフェンターの元に制作費が入り込み、そこからハスケルらメンバーは15ポンドのギャランティを受け取っていたようです。キース・エマーソンが65年にマーキーの音楽部門とマネージメント契約した時は週給20ポンドとコレも新人として破格の扱いを受けましたが、当時のロンドンでハモンド奏者は貴重な戦力だったので納得できる部分もありました。田舎から出てきたばかりの青年ベースプレイヤーだったハスケルが在籍していたフルール・ド・リス(FDL)が、それだけフェンターにとっても"使える手駒"だったという事なのでしょう。 フェンターの生い立ちを追ってみると彼がどうやってスィンギングロンドンでのし上がっていったのか、その一端が垣間見えるのではと思い、いくつか情報を収集してみました。 フランク・フェンター (1936年2月25日- 1983年7月21日)南アフリカヨハネスブルグ出身。 1958年22歳で渡英しロンドンへ出た際には、役者志望の若者だった。その俳優活動には1962年BBCで放送されたSFドラマTVシリーズ「ザ・ビッグ・プル(フェンターのウィキペディアには63年と書かれているが実際の放送データは62年6月からの全6回)」への出演歴が残されており、米ソ両軍が協力し宇宙人に対抗する物語においてソ連軍?少佐マイク・シコロスキーという役を演じていたようです。 1964年にはフェンター・ミュージックを設立、南アフリカの音楽映画「アフリカ・シェイクス」を制作し、脚本も共同執筆。南アフリカにおける最初のロック・ムービーでビル・キンバー・アンド・クォリアーズがフューチャーされていた。このクォリアーズ関連において60年代前半シャロン・タンディは南アでレコードデビューを果たしていたようです。 またこの作品は人種隔離政策アパルトヘイト下での初めての異人種共演作品ともなっていました。 南アの人種隔離政策の激しさ深刻さは、人種で職業・賃金・住居地域・労使協定・婚姻や恋愛までありとあらゆる分野で徹底的に格差が差別化されたものだったので、その垣根を60年代前半に乗り越える映画を製作していたという事にフェンターの意外な側面を見るようで驚かされました。 60年代初め頃のフェンターは、俳優業をパートタイム的にこなす傍ら、ロンドン周辺バンドを発掘する仕事もしており、この当時フェンターがブッキングした新人バンドの中には、ローリング・ストーンズ、ジ・アニマルズ、マンフレッド・マン等後年成功を収める新鋭がおり、未契約バンドも多かったそうです。彼らとの関わりからフェンター・ミュージックはチャンスを掴み、チャペル音楽出版と合併。60年代後半に彼はリバティ・インペリアルレコード出版のトップにまで登りつめたと言うことです(後にARC・チェス・ミュージックとなった会社)。 (リバティー、インペリアル両社とも1950年代設立のポップス系レコード会社だったが、リッキー・ネルソンに多くの収益を依存していたインペリアルは、63年にネルソンがデッカに移籍した事で業績が低迷し、リバティーに吸収されてました。) 1966年アトランティック・レコードのトルコ人プロデューサーのネスヒ・アーティガン(弟はアトランティック創設者アーメット・アーティガン)にその辣腕を買われ英国でのヘッドを任じられるとアトランティックの欧州全ての業務を担当。アーメット・アーティガンは当時のフェンターを「アトランティックの欧州展開ではフランク・フェンターの加入が大きな貢献をした」と後年彼の業績を称えています。 画像左でカメラ目線なのがフェンター、画面右でグラスを持っている紳士がネスヒ。 ハスケルらFDLがフェンターの子飼いになったのは、時期的にこの頃と見ていいのでしょう。セカンドシングル「サークル」を出した後、イミディエイトからあっさりバンドはアトランティックにレコード会社を乗り換えていますね。またゴードン・ハスケルが9ヶ月間ジミ・ヘンドリクスと共にアニマルズがこの当時所有していた西ケンジントンの邸宅に下宿していたのも、フェンターがアニマルズと昔なじみだった関係からなのではないかと推測が出来ます。実際、FDLの自伝本においてこのケンジントンの家でくつろぐフェンターやアメリカの黒人ソウルシンガー、ドニー・エルバートの写真が載せられていました。 この当時フェンターが制作においてセッションで起用していたのは、FDLのメンバーのほかにもジョン・ブロムリーやグラハム・ディー、そしてアレンジャーのイアン・グリーンやゲイリー・シュリー等もブレーンとして参画してました。そして録音されたメディアは行方不明ですが、ジミ・ヘンドリクスもオーバーダブでセッション参加したこともあったようです。 ハスケルによるとこの時期、アトランティックの顔役フェンターに付いていくと大抵は顔パスが利いたそうで、ハッピーなセッションワークでもあったと語られています。クリスマスには彼ら配下を従えて南フランスで豪華な休日を楽しんだ事もあったそうです。 ハスケルのインタビューによると、フェンターの力で当時注目バンドだったヴァニラ・ファッジとのセッションをヴァニラファッジのスタジオで行ってますが、この録音テープはフェンターに「ゴミ」と言われてお蔵入りとなってしまいました。ハスケルのインタビューでは、このときFDLの新しい可能性が広がったのにと惜しんでいますので、その部分だけ読むと豪腕で独断する人物という印象がしてしまいます。しかし日々無数のバンドや歌手のマネージメント業務に持病の薬を飲みながらあたっていたフェンターの現実的でシビアな判断力は、間違いを犯せない立場ゆえのリアルさを伴っていたからなのでしょうね。とはいえ、そのセッションテープがドコからか発見されないものかと思ってしまいますが。 フェンターは、オーティス・レディングやサム・アンド・デイヴ、そしてアレサ・フランクリンなど当時のビッグスターの英国でのマネージメント業務も行いましたが、同時に多くの若手バンドの発掘にも勤しんでいたようです。アトランティックがその後飛躍的に成長する際に活躍したアーチストとの契約を取り付けたのもその後のフェンターの再評価になっているようです。 アトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガンは「アトランティックの欧州展開では、フランク・フェンターの加入が大きな貢献をした。レッド・ツェッペリンの発見やプログレッシヴ・ロックの礎となるキング・クリムゾンやイエスとの契約がその代表例」と称していました。 画面左の眼鏡をかけているのがアーメット、画面右で笑っているのがフェンター 1969年にはカプリコーン・レコードを設立し副代表として運営。キャプテン・ビヨンドをデビューさせた後は、アメリカのサザンロックの発展に貢献。オールマン・ブラザースバンド、マーシャルタッカーバンド、エルヴィンビショップ、ウェットウィリー、シーレヴェル、デキシードレグスら多くの才能を世に送り出しました。 パンク/ニューウェーブの台頭もあり1979年にカプリコーンレコードが経営悪化の末破産すると83年にはレーベル再構築での経営再起を目指し、契約交渉をしている最中、ジョージア州マコンにあったカプリコーンのオフィスで心臓発作を起こし、この世を去りました。この時フェンターは47歳だったそうです。 死後、彼の業績が再評価され、ジョージアの音楽殿堂入りを果たしているそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 16, 2015 03:38:24 PM
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