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カテゴリ:60's
1968年9月22日、最初期のYESに入り浸っていたBill Brufordは、リーズ大学へ通う為にバンドから離れました。その後、YESは翌23日からDave Pottsというドラマーに叩かせましたが、余り良くなかったのかすぐにコレを交代、元KoobasのドラマーTony O'Reilly トニー・オライリーが参加してます。
どうやら上記画像右端の人物らしい。 彼の叩いたYES音源なりあるなら聴いてみたいものですが、彼の在籍は9月下旬から11月下旬までの約二ヶ月なので残されて無い可能性が高いですね。(生前のイアン・ウォーレスのインタビューでは、一日だけデビュー以前のYESから頼まれ臨時ドラマーを務めたそうですが、その詳しい日時はわかっていません。)※ブログ最後に参考を記述。 YESで無いなら遡れと言う事で、ちょろっと漁って見たらありました。トニー・オライリーがYES以前にいたKoobas時代の演奏映像です。動画の冒頭3分20秒ほど英語字幕で無音の説明部分が続きます。この当時ビートルズ・マネージャーのエプスタインに飼われたバンドだったそうで、ビートルズのツアーで前座もしてたようです(他にザ・フーやジミヘンのツアーにも参加してた模様)。 このフランクフルトでのバンド名の綴りが違うのは途中で表記が変えられたからのようです。 THE KUBAS LIVE IN FRANKFURT 1965 1966 カメラがヴォーカルばかり追うので余りドラマーは映りませんが貴重ですね。17分以降になるとドラマーもよく映りこんでいます。 60年代半ばは西ドイツの歓楽街で活動する英国グループが非常に多かった時代。YESのジョン・アンダーソン、KCのボズやイアン・ウォーレスら多くの演奏家が若き日をドイツでのクラブでプレイしてたそうですから、顔なじみだった可能性もあるかもしれません。 映像で当時のヒットナンバーをカバーし続けるバンドの音楽性がいかにも60年代中期のビートグループそのものなので、ドラマーとしての個性もよく判りません。そりゃビル先生の後だと生半可なプレイヤーじゃ勤まらなかったんでしょうね。結局その後ビルがYESに戻ったのは有名な話ですしね。 カバー曲だらけのライブ映像だけじゃあんまりなので、彼らが残した楽曲も貼っておきます。 結構面白いですね♪ The Koobas - Royston Rose The Koobas - First cut is the deepest The Koobas- City Girl ちょっと再発CDを聞いてみたくなってきましたw 10/15月追記 ブライアン・エプスタインの死後、1968年から彼らクーバスをマネージメントしたのが、エプスタイン繋がりのトニー・ストラットン=スミスだったそうです。時期的にはストラットン=スミスが経営悪化したイミディエイトから離れカリスマを立ち上げる前辺りなのかもしれません。 ボンゾドッグやナイスを手掛け、ジェネシスとはまだ契約する前、そんな微妙な頃だったのでしょうね。 クーバスのヒットシングルThe First Cut Is the DeepestがイギリスでTOP20のヒットとなったのもこの頃とか。 それなのにどういう経緯でオライリーがYESに参加したのかは謎ですが、オライリーが病欠したYESのステージを緊急措置でイアン・ウォーレスが一夜ヘルプし、それがきっかけでブルーフォード復帰に繋がってるようですね。(となると11月下旬辺りかな?) その後のオライリーはBakerlooに一時いたようですが、ここでも数多く入れ替わったドラマーの内の一人にしか過ぎなかったようです。 余談:イアンウォーレスインタビュー記事から意訳抜粋 「ジョン・アンダーソンらとのウォリアーズからジョンの兄トニーが抜けた後僕らはドイツとデンマークで18ヶ月を過ごした。ココでドラマー経験を積んだのさ。この後、よく共演してたビッグ・サウンドに移籍しコペンハーゲンで半年働いた。それが終わると68年にロンドンへ戻った我々(たぶんスリーピーというバンド)はYESの連中と同じ建物に住んでいたんだ。 YESのドラマーが病気になった時、私はYESで一晩実際にプレイした。彼らからその後のギグもやらないかと言われたが断った。サンディー・ショーやビリーJクレイマー、マーベルズ他とのツアーサポートの仕事があったからね。で、ヴィヴィアン・スタンシャルから解散寸前で崩壊しそうなボンゾドッグのラストツアーに誘われたんだよ。そしてその後ニール・イネスの「ザ・ワールド」にデニス・コーワンらと参加したわけ。」 イアン・ウォーレスというとYESでの代理話の他、末期ボンゾドッグでの臨時ドラマーやらフォリナーでの怪我人穴埋め参戦とかそういう余り日の当たらない活動がありますね。プロコルハルムのツアーメンバーというのもありましたし。こういった音源って残されてないんでしょうねー。そういや晩年の21バカバンドもジャイルズ先生の後釜でしたね。 ======= 今回の件で判った事に未解明だった下記画像があります。ジャイルズ兄弟が60年代中期在籍していたトレンドセッターズの何年の物か不明だったギグ告知ポスターが1966年とほぼ確定。 以前は64か65かな?とも思ってましたが、クーバスがPYEレコードで65年年末に出したシングル名が出ています。という事は4月の興業なので、66年以降がまず決ります。ジャイルズ兄弟のトレンドセッターズは67年1月にバンド名がザ・トレンドと短く変更されてますから67年以降はありえません。つまりめでたく66年と落ち着くって寸法です。 なるほど、66年ザ・リッツのダンスホールでは、後の初期イエスドラマーオライリーさん、そして後にクリムゾンメンバーとなるジャイルズ兄弟が同じ4月にそれぞれ出演していた。という余談でございます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 17, 2015 11:13:16 PM
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