カテゴリ:生きとし生けるもの
あるキリスト教雑誌の最新号に
「被爆60年 キリスト者として」という特集記事があり、 広島で被爆された牧師先生の一文が掲載されていた。 (2度ほどお会いしたことがある) 原爆投下とその後のアメリカの非情さは、被爆者団体が憎しみを いだくほどだった、それは理解できると実感をこめて語られる一方、 被爆者団体の活動に違和感を感じ続けておられた。 ご自身の被爆体験をつづった本を出版された時 「個人の意見であるがアメリカが原爆を使ったことを 赦そうではないか」と記された。 被爆者団体の会長から抗議された時、先生はこう答えられた。 「憎しみを抱いて運動を進めてどんな解決ができますか」 相手は絶句されたという。 被爆者として、アメリカを赦そうとは、簡単に言える言葉ではない。 その重い言葉に 「日本を赦します」と言ってくださった韓国の方々の 姿が重なる。 加害者であることを忘れ、被害ばかり、すなわち自己の正当性のみを主張 し、敵を力でねじふせ、やっつけることばかり考える。そして「自分たちもまた加害者、罪人である」と認めることを「弱さ」とか「自虐的」と否定する、すべての戦争の中に同じように、そんな人間の罪深さが見える。 「絶対に赦さない」という言葉は「絶対」なものなのか?「そう言わずに いられないような思いをしたことがないからだ」と言われればそれまでだ。 だからこそ「そう言わずにいられないような思い」をされた方々の言葉を 聞こう。 「平和を実現する人々は、幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」 (新約聖書:マタイによる福音書5章9節) わたしが「絶対に赦さない」という思いをもつような事件がおきるかも しれない。その時わたしが、今と同じことを言えるかどうか自信はない。 でもわたしは「それでも、赦します」と言えるようになりたい。 させていただきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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