野村芳太郎監督死去「砂の器」
映画のほうのなどで知られる野村芳太郎監督(のむら・よしたろう)が8日、東京都立大久保病院で肺炎で死去されました。85歳でした。 喪主は、次男の芳樹(よしき)さん。 野村さんは大正8年4月23日、京都市に生まれで、慶応大文学部を卒業後、昭和16年12月に松竹入社しました。父上は昭和初期に活躍した故・野村芳亭監督です。 戦中は応召し、戦後ミャンマーから復員。家城巳代治、川島雄三らの助監督についた後、1927年、「鳩」で監督デビューしてブルーリボン新人監督賞を受賞しました。 さまざまなジャンルの作品を幅広く監督しましたが、松本清張との出会いが転機になりました。 1933年の清張原作が傑作となり、松竹としても清張物というジャンルができました。集大成というべき(1949年)が大ヒットした後、野村監督と松本清張で「霧プロダクション」を設立し、清張作品映像化を続けました。 一方で、東宝・角川がでヒットを飛ばすと、渥美清の金田一でを撮り、劇中の「たたりじゃ~」が当時の流行語になりました。 もっとも、金田一の企画については、角川が最初は松竹に持ち込んだ企画でした。これを「本屋に何ができる」と蹴ったので、角川は東宝で「犬神~」を撮影し大ヒット。松竹が映画について「保守的」でなければ、その後の日本映画の流れは変わっていたでしょう。