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2008.03.16
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カテゴリ:美術、遺跡、景観
(承前)

今の「山之辺の道」はおそらく、ルート設定の関係上からある程度、
段違いになったりしていますが、
もともとは、街道であったのですから、基本的には一本の道だったのでしょう。

環濠集落が、この斜面地にあったというのも驚きです。
斜面地である、、ということも驚きですが、
あの「七人の侍」を思い出すまでも無く、
「守るべきもの」「襲う側が狙うに足るもの」が
あった、、ということでもあります。

農地そのものは、より平坦な、下の方にあるはず、、
確かに、水は豊富なようです。
川(溝に近いですが、この日も、水量は多く、また、生活排水も混じっていないのでとてもきれいでした)が流れています。
「農地がこれだけあるから、どれだけ水が必要」という発想ではなく、
おそらくは、
「これだけ水があるから、これだけの農地が灌漑できる」
ということで、
「農産」がなされたのでしょうし、
だからこそ、
小麦もとれて、
「三輪そうめん」の生産もしようというものなんだろうとは思います。
(このあたり、まったく事実関係を調べてなくて、印象でモノを言ってるので、
 識者の方がおられましたら、訂正おねがいします。)

しかし、
そうなると、収穫後の農作物を守ったのか(七人の侍の設定もそうでしたね)、
または、
一定、収量があり、また、消費地への出荷・換金も、低コストでできたことから、
富が蓄えられていた集落がいくつか存在できた、
ということなのかもしれません。

先に書いた、廃仏毀釈で、明治政府につぶされた、永久寺などは、
石上神宮も含んだ「寺領」を広大にもっていたのですし、
「僧兵」も居たので、その範囲内は「自衛」したことでしょうから、
となると、
環濠集落は、この寺領の範囲の外だったからこそ、やむなく、、、
なのかもしれませんね。
ちなみに、今行っても、ほとんど痕跡も無い、、という状態です。
地割では少し痕跡がありますが。

そんなこんなで、ちょっと、道はあちこち行きます。

大阪市内の「熊野街道」でも、実際にどこを走っていたか、
場所によっては、かなり諸説ありますし、
「どの時期の?」位置か、、によっても変わってきそうです。
(大阪は、いわゆる太閤が中心部を完全に、作り変え、
 また、江戸期に、都市域を拡大して、低湿地を市街地に変えて、
 「水際」の位置もかわり、、、で、本当に、
 天満橋あたりから、阿倍野あたりまでのルートは、
 古代のものは、痕跡すら無いかもしれないようです。)

実際、ちょっと、ちゃんと勉強しないと、
こう書いていても、一体、「山之辺の道」は、
いつの頃の何なのか?(僕にとって)不明なことだらけです。
なにせ、白鳳時代くらいから、明治期まで、、、
しかも、数次にわたり、「つくりかえ」がなされているので。
(古代でも、飛鳥のように、一定時期以降、完全に放置されていたところと、
 そのあたりがちがいますね。)

この山之辺の道、かなり堂々と「日本最古」と断言してるものが多いのも、
ちょっとほほえましいです。
(「戦前」なら微笑んだら、不敬罪なんでしょうね、、、)

途中、寄り道して、「相撲発祥の地」なぞをまわって、、
だんだん日暮れが近づいてきました、、

山すその道をたどると、
典型的な中腹の社が「桧原神社」、、大神神社の摂社とのことですが、
この社からは、まっすぐ、参道が下へ伸びています。
参道と社との結界には、古代信仰を思わせるような、
しめ縄、、、鳥居の原型なのでしょうか。(社の方は、三つ鳥居です。ご神体は山そのものなので)

そして、ほぼ真正面、盆地をはさんで向こうが、二上山、
夕日がもうちょっと待っていると、二上の背中に沈んでいくのでは、、、と思わせるような
美しい光景です(写真に撮らなかった、、、)。
もしかしたら、春分と秋分は、ちょうどそうなるのかも、、、とか、
二上山の背中に、春分と秋分に、ちょうど夕日が沈むように見えるスポットに、
なにか、社はつくりたくなるかもなあ、、、、とも想ったのでした。
ただ、
待ってると、そこで先へいけないので、せめて、大神神社までは、
今回は行っておきたい、、ということで、
後にします。

また一般道のようなところに入ったり、
山道をくねっとまわったりすると、
いよいよ、「大神神社ゾーン」っぽいところにやってきます。
小さな学業の神様の社の隣が、街を見下ろす「展望台」のようになっていて、
大神神社の大鳥居が黒い巨大なシルエットで浮かんでいます。
あれは、もう威圧感を示すものという気がしました。

返して、今度は、病気平癒の神様、、、狭井神社というそうです。
友人のお父さんの検査結果がよくなかったとのことだったので、
もう、お守りとかの時間は過ぎてましたが、
この日、唯一のお賽銭付きの参詣、、

あとは、樹々の陰で、すっかり暗くなった北からの「参道」を歩きます。
まだ日暮れには時間があるのですが、、、
この参道、しかし、電気ですが、
無数の「灯篭」が、規則正しく、ずっと、並べられていて、
演出効果がはなはだしい、、、です。
(これは、大神神社のコンセプトのようで、正面(西向き)の参道も同様でした。)

そして、大神神社。
はじめに、新しい大きな拝殿、、、これは最近、建てた、参集殿のようなもののようです。
真新しい建物と、
その前の広大な広場が、まだ「現役」の「宗教施設」であることを
なまなましく示しているかのようです。

そして、重文の「拝殿」、、
これも、案外、古びてはいないです。
そして、大きい。

なにより、こちらも「現役感」バリバリです。
数人の人が、熱心に、祈祷文のようなものを唱えています。
そして、
榊というのでしょうか、木の棒の先に、紙の束を付けたものが、
鳥居前(拝殿前)に左右、3本ずつ立ててあって、
各自が、それを「お払い」というか「お清め」に使うみたい。
かなり熱心にやっておられて、
これもまた、「現役の宗教施設」たる雰囲気充分です。

「神社」は、もともとはかなり、
古代宗教、ローカルな祈祷、呪術、自由、自然発生的、という面の一方で、
江戸後期の「神道」および明治政府の「統一」と「国教化」により、
権威付けと「整理」がなされたことから、
どうも、
「山之辺の道」と同じく、
どこからどこまでが、「昔から伝わってきたもの」か?よくわかりません。
例の、2礼1拍手2礼、、、とかいうのも、
まず、昔は、全国、イロイロだったはず、、、
(そもそも、社の建物自身、古代は必ずしも常設ではなかったところも多いし)

まあ、それ言い出せば、「仏教」だってそうなんですが、、、

三輪山、大神神社、、といえば、
古代宗教の原型で、ある意味、超越的な、「人」を離れた神々しさ、、を想像していたのですが、よく考えたら「宗教」である以上、「人」にかかわることなんですよね。
よくもわるくも、案外、リアルな宗教施設、、でした、、大神神社。。。

さて、これ以上は、「山道」は断念せざるをえませんので、、、、
「参道」を下ります。
例の灯篭ロード、、です。
しかし、これも想像と違っていたのですが、
拝殿から、まっすぐ参道が延びていて、その向こうにあの大鳥居がそびえる、、という配列ではなかったのでした。そして、それらの延長上に、三輪山の山頂が、、、と想っていたのですが。

道なり、、ではあるのですが、一旦クランクというか、、、並行した位置にあります。
参集殿の方から降りれば、まっすぐだったようなので、
これは、リザベーション付きの感想ですが、、、
それにしても、
拝殿そのもののからの真正面ではない、、のは意外でした。

ちなみに、大鳥居、
余りにも巨大なので、
よく、記録で話題になる、古代の「出雲大社」の巨大さを体験するようなものかな、、
と想ったのですが、
これも、新しい建造物でした。
木の時代はどんなものだったのか、、、どの寸法だったのか、、、これも知りたいところです。

あとは、国道まで出て、
車の通行が多い脇を、おそらく1.5mほどもあろうかという程度の細い歩道をてくてく歩いて、近鉄の桜井駅まで、、、で帰阪した次第です。
やっぱり、写真あったほうがいいですね。





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Last updated  2008.03.21 01:40:24
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