|
テーマ:暮らしを楽しむ(387745)
カテゴリ:写経の勧め
『般若心経』を仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳してます。
ただし、玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました。また、分かりやすくするため説明を付加しました。 私はこのように聞いています。 お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。 その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。 人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、連想、思考という一連の知覚を構成する5つの要素(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。 そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。 お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。 「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体のないものを本当にある物のように思っているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。 体は実体がないというあり方で存在しているのであり、実体がないというあり方が体の真実の姿なのです。これは体だけでなく感覚やイメージ、連想や思考も同じです。 (つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。) シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。 迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 目に映る世界から、心の世界まですべてありません。 (つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。) 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。 同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。) 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。) 知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。 このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。 心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。 ですから知らないといけません。 “智慧の完成”は大いなる真言(呪文)、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除くものであり、偽りがないので確実に効果のあるものなのです。 さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。 「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」 (智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りをもたらしたまえ。) シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 以上で“智慧の完成”の真言(真髄)の教えを終わります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年12月30日 09時21分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[写経の勧め] カテゴリの最新記事
|
|