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カテゴリ:写経の勧め
2008年に開創200年を迎える知多四国八十八ヶ所霊場
愛知県知多半島地方は気候、細長い地形など四国に良く似ているといわれており、また寺院の数も古くから多く、信仰の厚い地域である。 1809年3月17日深夜、現在の知多市古見にある妙楽寺の、十三世亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)が弘法大師の夢を見る。 そのお告げによると、「知多は我が悲願の宿縁の地、知多に八十八ヶ所の霊場をひらくべし、その開創に二人の道僧をつかわす。三人力を合わせてこの大業を成し遂げよ。」とのことだった。 そして、目が覚めると夢枕に大師様が立っていた所に砂が盛ってあった。 亮山和尚は、これは四国のお砂に違いないと思うのである。知多四国開創の決意をした亮山和尚は、その年に四国巡礼の旅に出る。 「ありがたや 行くも帰るも 立たずむも われは大師と 二人づれなり」 帰郷してからの亮山和尚は札所の設置に遁走する。 なにせ、知多半島で真言宗の寺院は三十しかなかったのである。 宗派を超えて五十箇所以上の札所の設置には所詮無理があった。 弘法大師が夢枕に立ってからはや十年の歳月が流れていた。 1819年、再び弘法大師が夢枕に立ち、その明けた日に巡り合った岡戸半蔵(1752~1824)との縁によって大きく開創の大業が前進するのである。 岡戸は亮山に共鳴し今まで、お大師様を祀ってくれ、札所になってくれ、という方針から彼の私財を投げ打ってお大師様の像を作製し、祀っていただくという方針で、亮山和尚と共に札所の設置に尽力を注ぐ。 1823年、亮山和尚がかつて四国霊場巡拝の際、善根宿をいただいた高松城の武家、武田安兵衛(1788~1825)が、亮山和尚を訪ねる。 彼は四国全山のお砂を持参し亮山に知多四国開創の決意を告げる。 この時亮山和尚はお告げの三人がそろったことを確信し、知多四国開創の思いをあらたにする。 馬の口を岡戸半蔵が持ち、本四国のお砂を持った武田安兵衛が続き、お大師様の木像を持った亮山阿闍梨がゆく・・・。 それから二年の歳月が流れ、1824年亮山阿闍梨53歳、岡戸半蔵73歳、武田安兵衛37歳、各札所にお大師様の木像を奉安し八十八ヶ所の札所を制定する。 この札所の名称を淮四国霊場とする。 その年、岡戸半蔵、古布村誓海寺で没す。戒名「冷月院禅林逸学庵主」。73歳。 1825年、武田安兵衛、布土十王堂で没す。戒名「廻翁浄国信士」、葦航寺に葬る。38歳。 1847年、亮山、福生寺で入寂、妙楽寺に葬る。76歳。 1893年、知多新四国霊場と称する。 1983年、知多四国霊場会と称する。 参考文献 知多四国霊場会 半田中央印刷 知多四国めぐり 同 知多四国はじめて物語 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月02日 22時15分57秒
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