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カテゴリ:写経の勧め
尾張三十三観音昭和33年(1958)開創50年になります。
こちらは知多四国88箇所霊場のような大きな催しも無く、ひっそりと粛々と記念年を迎えています。 今回、知多四国巡礼を始めて、野間大坊を参拝したときに尾張三十三観音巡礼のことを知り、こちらは、現場仕事などで立ち寄れるところが多いのでこの巡礼も始めました。 神社仏閣に興味は無かったのですが、写経を始めて、新聞で知多四国霊場開創200年を知り、改めて謂れや本尊などを調べながら巡礼しています。 尾張三十三観音には、 幼児に通った久国幼稚園のお寺 久国寺(岡本太郎の鐘が有名) 遠足で行った犬山成田山 近所の甚目寺観音 温泉によく行く龍泉寺 今年節分で行った大智院 笠寺観音・荒子観音・八事の興正寺・・・ 馴染みの寺が多くあります。 元禄5年(一六九二)名古屋は城下町として繁栄し、人口六万四千人を数え、江戸、大阪、京都につぐ都市となった。 このころ観音巡礼が盛んになり、西国霊場の写しが各地に設けられ、尾張にも三十三ヶ所が設けられた。 江戸中期から末期にかけて観音巡礼は庶民信仰の中心で、寺々は巡礼に震わったが、明治維新による廃仏毀釈の影響で衰退し、太平洋戦争では巡礼の道が断ち切られ、寺々は消失などで戦後は復興しなかった。 昭和三三年(一九五八)に観音信者の呼びかけで、三十三観音霊場結成の気運が高まり、八事山興正寺において、開創大法会が行われ、尾張西国の七ヶ寺をはじめ、大須・宝生院や知多の七ヶ寺ほか尾張各地の有力な寺々が参加した。 名古屋市大須・宝生院を打ちはじめに、知多半島を一周し、尾西から尾北を経て瀬戸より名古屋市へ戻り、尾張高野で知られる八事・興正寺で打納める、その道程およそ三百三十六キロのコースが設定された。 観世音菩薩の種類とは 聖(正)観世音菩薩像 一般に観音菩薩という場合は、この聖観音菩薩を言います。多くの変化観音像はこの聖観音菩薩像が変化した姿である。 頭に阿弥陀如来の化仏を戴いています。 十一面観世音菩薩像 頭上に十一面観世音菩薩の顔を戴く観世音菩薩像で、変化観音像では最も多く造られた。頭上 の十一面観世音菩薩のうち、正面の三面は慈悲をあらわし、左の三面は悪事を戒め、右の三面はいい人を誉め、背後の 一面は、悪事を働く者をあざ笑い改心させる。頭上には如来面を一面おく。 悩み、病苦、厄災、悪夢を取り除き、特に病気退散がかなう。 千手(千眼)観世音菩薩 頭上に十一面と頭の正面に阿弥陀如来の化仏を戴き手は千本造る場合と、42本造る場合がある。42本造るには、中央の合掌した2手を除いて、左右に20手ずつ計40手とし、千本を象徴するのである。これは各1手が仏教で考える25有世界の人々や生き物を救うとされる。 寿命が延び、罪が許され、所願成就する。 如意輪観世音菩薩像 頭の正面に阿弥陀如来の化仏を戴く。六腎像が多く、第1手右は頬にかるくあて、左は垂らし地を押さえ、第2手右は宝珠を胸前に掲げ、左は蓮華をもつ。第3手右は垂らし数珠をもつ。 苦を除き、欲しいもの、たとえば金銀財宝でも、おいしい食べ物でも、望むものは全て与える。 馬頭観世音菩薩 頭上に馬頭を戴き髪は逆立つ。三面三目八腎、四面二腎,三面四腎等が、いずれの顔も怒りをあらわす。 旅の安全を願い牛や馬を守る。 巡礼と聖地 霊場とは 宗教の発祥地、本山の所在地、聖者の居住地や墓、奇跡や霊験を伝える場所等を「聖地」や「霊場」という。巡礼は、これらの場所を順に参拝することを通して祈願の成就と贖罪や減罪の効果を期待する。 巡礼と遍路とは 巡礼は日本に限らずどの宗教にも行われています。巡礼の始まりは当初から純粋な信仰心からではなく、遊び心から熊野詣り、伊勢参りでが始まりとされています。 巡礼は、観世音菩薩像の信仰であり、遍路とは弘法大師祈願遺跡の四国八十八所を参拝するときの名称であります。 このように巡礼と遍路の言葉を使い分けています。 三十三観音とは 観音様が色んな形に身を変え、人々を救おうという考えから、三十三の霊場が選定されたもので、京都の三十三間堂もそうした現れではないでしようか。三十三と言う数は無限を示す数と言われております。 札所とは 988年花山天皇が西国三十三観音の粉河寺に参詣されたおり、歌を詠まれた一首を、札に記し手向けられたのが御札の始まりのようです。 御詠歌は 御詠歌は、花山天皇(988)の作が初めと言われていますが、各寺院の御詠歌は何時、誰の作歌は不明のようです。 人から人に歌い継がれたのか、悲しみの深い哀調のある、どうにもならない世相の歌のように聞こえてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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