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2008年02月26日
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カテゴリ:写経の勧め
名古屋市の中央に座する大須観音。

幼い頃からよくお参りに行ってました。

謂れとか本尊など気にすることなく。

知多巡礼と違い、名古屋を代表する観音さんの一つとして外国人の観光客も多かったです。

大須の盛り場はは大須観音を中心とする門前町として形成されてきました。
参拝客目当ての土産物屋,掛茶屋それが盛り場,商店街へと姿が変わって行くのも東京浅草と類似点を強調される由縁。
「観音さん」と親しみをもって呼称され、老若男女問わず信仰の対象として参詣の絶えることがない。

ここ数年若者相手のお店が増えて、門前町は活況を取り戻しています。
昭和50年代から比べると2倍3倍の人出であります。
全国で始めてミニ馬券売り場も昨年開設されました。
境内では鳩にえさを与えるほのぼのとした姿も多い。

織田信長が清洲を居城としたことから清洲は繁栄を迎え、時が移り慶長15年 徳川家康の命により名古屋築城の為 武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までも清洲から移されます。
それが通称「清洲越し」
 大須の歴史は清洲越しから始まりますが、それはまた盛り場の歴史でもあります。
現在では想像すら出来ませんが、大須観音、万松寺、若宮八幡社などの境内では連日 芝居、相撲、物まね、曲芸の興行が行われ大賑わいであったと記されています。
現在は一年に3日しかありませんが、毎日が大道芸の日と云ってもいいかもしれません。
戦前は縁日の人出はおよそ12万人とか 。

もともと尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)にありました。
御開山は能信(のうしん)上人です。
 元亨4年(1324)後醍醐天皇は、勅願を下し賜い長岡庄に北野天満宮を御造営になりました。
天皇は能信上人に深く御帰依(きえ)になり、元弘3年(1333)上人をその別当職に補し、「北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」という寺号をたまわりました。
能信上人は当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日おこもりになり、「この世の人々が、おすくいをうけ、おめぐみをいただきますには、どなたさまをおまつりしたらよいでしょうか」と一心不乱においのりになりました。
上人の誠は神に通じ、ある夕べの霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人々に、もっともありがたいお方である。」とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴いお姿を拝されたのであります。
そのお姿は、昔、弘法大師が一刀三礼御彫像(いっとうさんらいごちょうぞう)あそばされた摂州四天王の大慈大悲の観世音菩薩に寸分違わぬ御尊影でありました。
この霊夢の不思議は、後村上天皇の御代にいたり朝廷にたっし、詔によって、当山に移され、ご本尊と仰ぐこととなったのであります。
それからのち、霊験はまことにあらたかなものがありました。
後村上天皇も厚く上人に御帰依になり、伽藍を建立し、田地を賜い、すえ長く「勅願寺となす」とのありがたい詔をくだされました。

 能信上人は、学徳ともに高いお方で、当寺の所蔵する多数の書物は東西の学者が珍重しているところですが、それらの多くは、上人がお集めになったものです。
さらに上人はすべての人々から尊信をうけ、ある時には神宮の巫女が、僧伽梨衣というお袈裟を大神のおさずけとして持ち来たり、又あるときには、神人が鬼面を持ってきて「この面は観世音垂跡(すいじゃく)の夜叉面ゆえに、加持を加え、諸人の禍(わざわい)を除き、福を授けよ」と申したと伝えております。
そしてこれらは寺宝となって伝わっています。

 御本尊の霊験は年とともに海内に響きわたり、第2代住職は信瑜上人、第3代住職としては任瑜法親王がお継ぎになり、寺領も一万余石におよび、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江、信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺としました。
戦国の世となり、織田信長公も寺領五百石を寄進し、徳川家康公に至っては、名古屋を建立するにあたり、慶長17年、まず第一に、当寺を、いまのこの地に移されたのであります。
はたせるかな霊験、日に日に新たに、善男善女の参詣きびすを接し、市の一大中心として繁栄し、「大須観音」と俗称され、真言宗智山派別格本山として、今日に至っているのであります。


慶長17年(1612)徳川家康 水害の多かった岐阜県羽島市大須より成瀬正成(犬山城主)に命じ現在の大須に移す。(大須の地名の由来はここに起因する。)
文化12年(1815)五重の塔建立。
明治25年(1892)大須の大火により本堂、五重の塔、仁王門焼失。その後再建するも戦火により焼失。
昭和45年(1970)本堂再建。
昭和55年(1980)50年に一度の大須観音大開帳



大須文庫

仁和寺、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫とも呼ばれ所蔵する図書は国宝 建徳2年(1371年)に写された日本最古の古事記写本(古い写本ほど正確に写されいることから)三帖,漢書食貨志 一巻をはじめとしておよそ一万五千巻に達する。真福寺本、又は大須本と称せられる。







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最終更新日  2008年02月26日 09時16分13秒
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