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テーマ:暮らしを楽しむ(388264)
カテゴリ:写経の勧め
長栄寺は、大須観音から1kmの所にあるので、賑わいを取り戻した門前町を散策しながら歩いた方が楽しい。 東本願寺別院、名古屋テレビの北側にあり、目標となる。 しかし、お寺は道奥に座する為、参道入り口看板を見つけないと迷いそうである。 この寺を有名にしているのは、「蘿塚(らづか)」と呼ばれる碑。 内藤東圃が主催した九老尚歯会は当書院で行われ、その一人横井也有の羅塚があり名古屋市の史跡に指定されている。 江戸時代「鶉衣」で知られる名古屋の俳人で、儒学、絵画、和歌、漢詩に長けた多芸多才な教養人である。 横井也有の従僕であり俳句の道では門人でもあった石原文樵が、明和6年(1769)にその恩義に報いるため也有の髪と爪を乞い、建てたもの。 也有が好んだツタ(蘿)がからませてあったことから蘿塚とよばれた。 昭和初期に修復したため、今は昔の姿ではない。 横井也有(1702~1785) 江戸中期の俳人、姓は横井、名は時般通称は孫右衛門、初号は素分、野有、別号は蓼花巻、知雨亭、半掃庵、羅隠など。 名古屋生まれ。横井家は代々尾張徳川家に仕え、也有も御用人となり、大番頭、寺社奉行などを兼ねた。 1754年53歳の時、勤めを退いて隠居し、風流に遊んだ。 俳諧は祖父や父の感化によるもので、美濃派の巴雀、書画、謡曲などをし多才な趣味人であった。 とくに和漢の故事を自由に使いこなした。 軽妙洒脱な俳文に見るべきものがあり、「鶉衣」と題してまとめられている。 ほかに句集「羅葉集」「ありずか」などがある。 闇の香を千折れば白く梅の花 (羅葉集) 境内には、第二次大戦(1945)で名古屋空襲をのがれた樹齢300年の「化け銀杏」の大木があり、大楠と共に保存樹に指定されている。 名古屋市保存樹指定番号(中)第9号 寺の伝えによれば、もと中島郡萩園村にあり、金光明四天皇護国寺であったという。 弘仁年間(810~824)に空海が海東郡森山村に移し観世音菩薩を本尊として景雲山氷見寺と改めた。 その観音様が今日残る十一面観世音菩薩である。 その後は承久年間(1219~1222)北条氏の兵火に消失し、天文年間(1532~1555)織田氏の兵火にあって一草堂を残すのみとなった。 文禄年間(1592~1596)に織田信秀の妹で小林城主牧義清の室、長栄寺殿繁室栄公大姉が清洲に移し正眼寺十二世明叟周見を開山として金剛山長栄寺に改めた。 慶長遷府のとき、南寺町矢場へ、政秀寺の南に移ったが1682年藩主光友より土地を賜り翌3年現在地に移り現在に至る。 主な年中行事 彼岸中日 春季彼岸会 お盆 お盆施食会 彼岸中日 秋季彼岸会 散策 長栄寺のすぐ南には、東本願寺名古屋別院があり、境内は14268坪と広大な面積を持ち、1605年に名古屋に移設された。桜が見事に咲きます。 近年改築された名古屋テレビ本社も南にあります。 下茶屋公園は、旧東本願寺別院、新御殿の後庭があったところです。 真宗大谷派名古屋別院(東別院)所蔵の平面図には「新御殿御庭」の建築群に伴って作庭されたものと考えられます。 江戸時代後期の庭園として貴重なもの。 名古屋市中区下前津の歩道脇に「横井也有翁隠棲之址」石柱が建立してあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月26日 09時19分12秒
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