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テーマ:たわごと(26888)
カテゴリ:生活
大好きな高峰秀子さんの映画を見、そして本を読み、思ったことがある。
映画を見ても思ったこと:高峰秀子さんは、めちゃくちゃ素晴らしい女優さんだった、ということ。 どの本を読んでも分かったこと:高峰秀子さんは、死ぬほど、映画女優という仕事が嫌いだったこと。 養父母の意向で5歳で映画界に入り、スターになった秀子さんは、シナリオを読むとゲップが出るくらい、女優の仕事が嫌いだった。が、若くしてスターになってしまったがゆえ、親戚縁者に次々にたかられ、10代、20代を映画に出演しまくって出演料を稼ぐ、「金銭製造機」として過ごし、仕事を辞めさせてくれない養母との暗い葛藤の日々を送った。 それが、30代になり、運勢が変わった。松山善三氏という、良き夫を得てからは、幸福な家庭生活を築き、夫の稼ぐが増えるにつれ、徐々に出演作は少なくなり、やがて50代で完全引退。そして、生活エッセイストとしての、第二のキャリアを築くことになる。 不思議なのは、そんなにも嫌っていた映画界で、暗い精神生活を送っていたはずの若き日の秀子さん、映画のスクリーンでは、微塵も暗さが見えないことだ。これ以上ないほどの、幸せオーラが出ていて、何の屈託のない、清らかな人に見える。庶民的でありながら、品が良い。目鼻立ちのバランスも、中肉中背のバランスの良いプロポーションも、「可愛い!」という言葉がぴったり。 30代以降になると、少し、影のある薄幸の女性が似合うようになり、年相応の、落ち着きのある表情になる。 さらに40代以降になると、自他共に認める、神経質で気難しい性格が表情に出てくる。相変わらず美しいものの、幸福感が匂いたつような感じはなくなる。インテリ「賢女」に変身し、全盛時のかわいらしい雰囲気は全く、消えうせる。 つまり、本人の実感としての幸福カーブと、外見上の幸福感カーブが見事にミスマッチなのだ。 彼女は、日本映画史を代表する女優。嫌いな仕事で、これだけの見事な成果を残すって、どういうことだろう。エッセイストとしても、優秀だが、女優としての素晴らしさにはかなわない。 秀子さん自身の著作によると、「嫌いだけど、お金をもらっている以上は頑張った」と、ある。オペラ歌手について発声訓練をしたり、医者から解剖学を学んだり、非常にプロ意識の強い人だったようだ。 が、それよりも何よりも、本人の好みや精神性にかかわらず、天賦の才能とスター性を授かってしまった、というのが、まず先にあったと思われる。 そう。好きこそものの上手なれ、は、現実の世界では、当てはまらないことが多いのだ。仕事を選んだのではなく、仕事に選ばれてしまった。 そして、天から与えられたものに、不満は感じても、精一杯、答えよう、とした結果が、あの輝きにつながったのである。 嫌いであっても、彼女は、女優という与えられた仕事を一生懸命やった結果、さまざまな著名人との豊かな交友が生まれ、いろいろな意味で、常人には得られない大きな恵みも受け取った。好きなことをして暮らせる後半生が与えられたのも、女優という仕事を一生懸命やったおかげだ。 そのエッセイストとしての後半生、秀子さんは、嫌いだったはずの、撮影所でのエピソードを実に、懐かしそうに、沢山、書いている。嫌いなのに、一生懸命やった自分の過去をいとおしんでいる。 その事実を知ると、「若いことに好きなことを見つけ、とことんやるのがいい」「直感を大事にしよう」「人生の目標を見つけよう」という一般的な人生論は、きわめて怪しく思えてくる。 実際、好きなことと、得意なこと、というのは、必ずにも一致しないことが多い。 パラドクスめいているけど、職業的成功の秘訣は、好きなことより、得意なことを優先することだと思う。 これまでに、自分が好きで経営者になったわけではない、名経営者を沢山見てきた。そうなるつもりじゃなかったけど、そうなってしまった成功者たち。 仕事だけじゃなくて、恋愛や結婚にも、言えるかもしれない。 主観的な好きか、嫌いか、だけを尺度にした選択は、必ずしも長期的に見て、幸福な生活をもたらすわけではないように思う。 大事なのは、好き、嫌い、よりも縁だ。好き嫌いには、意味はないが、縁には、何かの意味がある。 人間、本当に、自分が選べることなんて、限られている。 好き嫌いをぐだぐだ言わず、自分にもたらされた状況で精一杯頑張り、縁を生かすこと。それが出来る人だけに、運命は微笑むのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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