嵐が来たら海は荒れる
大型の船が通っても波は高くなる
小型の船が通っても小さな波は立つ
小石をトポンと投げ込んでも、水面に波紋が広がる
けれど、波の下をどんどんと進めば海の奥底
そこは静かな海の底
荒れ狂う嵐の海も、大波も、小波も影響されない深い静けさだけがある。その静けさが永遠かのようにゆったりとした時が流れている。
人の感情もこのようなものではないかと思う。
何かの出来事に対しての反応が嵐だったり、高波だったり、小波だったり、波紋だったり。
けれど、それは物事の本質ではなく、反応に過ぎない。
起こっている出来事、現象に反応している限りは、どこまでも嵐はおさまらない。自分では止められないまま...。
たとえば、現実で起こることで言うと、相手がこう言う、こんなことする・・訳わからん・・・云々・・は、相手のせいではない。相手をせめても解決はしない。
そう思っている自分に気づかなければ終わらない。
確かに時が経てば嵐もおさまるだろう。そしてそれは、波も、波紋も同じだろう。
それを時が解決してくれるとも言えるのかもしれない。
それは、ひとつの解決方法だろう。
だけど、他力本願ではまた同じことが起こる。何度も繰り返す。そして何よりも通り過ぎるのをただ待たなければならない。耐えてただじっと。
時には何かが刺さったままのことも起こる。それも時間に委ねるのか...。
自分の裡を見ることのみ。
わざわざ手放すなんてのも必要ない。不要だと気づけば勝手に離れるもの。
とにかく戦わない。
とにかく力をかけない。
とにかくそのままにする。
とにかく判断しない。
ひとつひとつ丁寧に見ていくことが深い意識にアクセスすることになる。
その繰り返しだと思う。