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カテゴリ:憲法
「 しばらく前から一冊の本を前に考え込んでいる。憲法について自分は姿勢を変えるべきなのか。 矢部宏治さんが書いた『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)はラディカルな、つまり過激であると同時に根源的な問題提起の本だ。この本の内容と、それをきっかけに以下ぼくが考えたところを述べる。 * このところ、戦争責任を認めた村山談話が議論の対象になっている。あれは屈辱的だという意見もあるけれど、それを言うならこの七十年、外交だけでなく内政も含めて屈辱的だったのはアメリカとの関係ではないか。 安倍政権の問題点は集団的自衛権に見るとおり、ひたすらアメリカ追従に邁進(まいしん)するところだ。ナショナリストと見える彼らは実はアメリカニストである。強い日本は強いアメリカの属国を目指す。 アメリカの軍用機はこの国の空をどこでもどんな低空でも飛ぶことができる。オスプレイの配置に反対しても日米安保条約のもとではそれを拒む権限が日本にない。思想や感情ではなく法理がそうなっている。 辺野古に基地を造らせないと沖縄県民が言っても、アメリカが造ると言えば日本政府には反論の権限がない。彼らは空疎な発言を「粛々と」繰り返して暴力的に建設を進めるしかない。 ドイツにならって原発を廃止しようと思っても、日米原子力協定のもとではその権限が日本にはない。 国家の最高法規は憲法であり、その下に他国との間で交わされる条約があり、更に下に法律・条例がある。他者が関わるから条約は尊重される。 では憲法はというと、アメリカがらみの課題について最高裁は「統治行為論」という詭弁(きべん)によって責任を放棄してしまった。事実上、日米安保条約は日本国憲法の上位にある。行政の頂点には日米合同委員会がある。 つまりこの国はおよそ主権国家の体を成していない。そういう事態が六十年以上続いてきた。 * ここまではぼくもうすうす知らないではなかった。 この本は、なぜこういうことになったのか、その由来を丁寧に説明する。 日本国憲法が制定された経緯を論じた本は多いが、矢部さんは更に遡(さかのぼ)って淵源(えんげん)を一九四一年にルーズベルトとチャーチルがまとめた「大西洋憲章」に求める。「平和を愛する諸国民」と「世界のすべての国民が、武力の使用を放棄するようにならなければならない」という文言はそのまま前文と第九条に引き継がれた。 ナチス・ドイツが進撃を続けている時期にどうして彼らはここまで理想主義を掲げることができたのだろう。 理想主義だからこそ現実はそれを裏書きすることができなかった。ドイツと日本には勝ったが、国連軍の構想は冷戦の中で消滅した。ちなみに勝ったのは「連合国」であり、それはそのまま「国際連合」になった。両者は英語では同じ言葉、United Nations である。戦後世界の秩序は彼らのヘゲモニーのもとに構築された。 だから日本は今でも国連=戦勝国連合にとっては「敵国」のままだ。このラベルは撤回されていない。我々は今もって敗戦国なのであり、条約と法律の体系はそれを反映している。国家主権を確立した独立国ではないのだ。 歴代の政権にはアメリカとことを構える気概はなかった。あるいはその気になったところでつぶされた。そういうゴシップはしばしば耳にした。 さて憲法。 日本国憲法をGHQ(連合国軍総司令部)が作ったことは認めざるを得ない、と矢部さんは言う―― (1)占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。 (2)その内容の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。 このねじれが問題。成立の過程にすぎない(1)を捨てて、実である(2)を取るか。これまで(ぼくも含めて)いわゆる護憲派は(2)が大事なために(1)をないことにしてきた。言ってみれば右折の改憲を止めるために直進と言い張ってきた。 しかし、今はもう左折の改憲を考えるべき時かもしれない。 この本の真価は改憲の提案にある。 憲法を改正することで屈辱的な条約を無効にできる。 改正憲法に、「施行後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可されない」という条項を入れれば、日本国内からアメリカ軍基地は一掃され、日本は国家主権を回復できる。もちろんアメリカは嫌がるだろうが、日本国民の総意とあれば従わざるを得ない。それを実現したフィリピンの実例もある。 さあ、どうするか。」
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最終更新日
2015年05月27日 14時42分57秒
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