長らく更新が滞ってしまい、大変申し訳ございませんでした。
それでは、だいぶ間が開いてしまいましたが、建長寺・半僧坊をお伝えしたいと思います。(こちらはシリーズとなっております。シリーズの最初はこちらからどうぞ。 )
今回鎌倉を訪問するにあたって、主人がメンターの方から頂いたアドバイスでは「建長寺」のみが明確に伝えられており、他に具体的なことは一切知らされておりませんでした。(これがメンターの方のすごいところで、あとの大切なところは自分の感覚で探しなさい、という暗黙の教えなのです。)
建長寺の受付をする前に、私は建長寺全体図の地図をじっくり眺めました。
そして私が「ここは行きたいな。」といった場所が2箇所ありました。
それが今回ご紹介する「半僧坊」とその次にご紹介予定の「回春院」です。
主人はすでに建長寺についてリサーチ済みで、この半僧坊には行くと決めていたようです。
私が半僧坊に行ってみたい、といったのは、山の上にあるからではなくて、地図でこの寺の敷地の最も奥にあるというのがわかったからです。(実は山登りがかなり苦手な私。)
半僧坊は、広い敷地を持つ建長寺の中で、最奥、しかも山の上にあります。
こうした敷地の奥にある場所、しかも山の上にあるようなものは神社仏閣では特に神聖なものを祀られる時に配置されているようです。そうしたこともあって「この場所は良い所に違いない。」そんな感覚がありました。
実際、半僧坊に登ってみると、明らかに一般社会と区分けされているような、つまり「結界を張られている聖域」という感覚がありました。やはり、ちょっと特別な場所なのでしょう。
そして、この半僧坊に行くことが、今回の鎌倉旅行での大きな意味を持っていたようです。
その証とでも申しましょうか、鎌倉から帰宅した主人がメンターの方にご報告をしたところ
「私が伝えなかったのに、良く半僧坊に行かれましたね。」
というお言葉を頂戴しました。
なお、下記に詳しく明記いたしましたが、建長寺の半僧坊は静岡県奥山方廣寺の分霊を祀ったものです。
それでは、この半僧坊についてですが、まずはこの不思議な「半僧坊」という言葉の由来と縁起についてお話をしたいと思います。(以下、色々調べてまとめてくれた志のブログからコピー。パパ、お借りしまぁす。ありがとうね♪)
【奥山半僧坊大権現】
静岡県浜松市にある臨済宗方廣寺の御開山 無文元選(むもんげんせん)禅師は南北朝時代の戦乱の中にお生まれになり、人々の苦しみを救い、慈しみの心を求めて出家されます。
やがて命のみなぎる思いで、元(中国)に渡り、雲水となり御修行に旅立たれます。八年間厳しい禅の御修行をされ、ついに悟りを開かれます。
そして正平五年(1350年)、中国の明州(寧波)を船出して日本への帰国の途中、玄界灘に差し掛かった時に暴風雨に巻き込まれます。
にわかに黒雲が起こり、風雨強く、怒濤逆巻く荒れ模様となり、船はあわや沈まんとした時に、天から一筋の光がさし来り、船首に眼光するどく炯々とした一偉人(半僧坊大権現・仏天)が現れ、無文元選禅師に誓って言われました。
「我、この船を護り、禅師をお護りし奉る。 無事、本朝(日本)にお送り奉り、正法(仏法)流転の大志を遂げしめ奉る」
と船頭を励まし、指揮して櫨を漕ぎ、難関を乗り越え遭難をまぬがれました。
この時、無文元選禅師は一心不乱に観音経をお唱えになられました。
すると不思議にあれほど荒れ狂った荒ら海も次第に波は静まり、無事に北九州の博多に着く事が出来たと言われております。
後に無文元選禅師が方廣寺をお開きになりますと、再び半僧坊大権現が現れて、開山禅師のお弟子となり、五百人の雲水学徒、修行僧とともに修行し、日夜、禅師のお側にお仕えしておりました。
やがて禅師がお亡くなりになりますと、半僧坊大権現は、
「我は禅師亡き後、正法を守護し、この山を守護し奉る。あらゆる人々の苦難を救い奉る」
と言い残して、高い山奥深く天空に姿を消しました。
五百人の修行僧も人々も皆
「観世音菩薩様が半僧坊大権現となってこの世に現れたに違いない」
と言われました。
その時以来、仏法の守護、人々の苦難を救い、諸願成就の願いを発して
方廣寺の鎮守となられました。
【 無文元選禅師と半僧坊大権現の再会時の様子】
無文元選禅師(第五十五代後醍醐天皇の皇子)が、当地の領主、奥山六郎治郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の御案内で、至徳元年(一三八四)の春、方廣寺へ御入山の折、途上、白髪の老人に会われ、この老人が禅師を見るなり、
「私はこの山中に住まい居る者で、ここでお目にかかったのが幸い、どうぞお弟子にしていただきたい』
と申しました。
禅師が即座に
「そなたの素性が分からぬでは」
と口にされるや、老人は
「いやいや、禅師のおっしゃろうとするお心持ちはよく分かっております。もし私の願いをお聞き届けくださるなら、今日からお仕えして、末永くこのお山をお守りします。」
と答えました。
禅師がまた
「おまえは半ば僧形である」
と口ごもられると、老人は大喜びで
「私は半僧です。人からも左様に呼ばれております。」
と答えました。
【半僧坊大権現】
【半僧坊大権現 御真言】
梵・喃那底哩底哩・娑婆訶 (おん なんのうちりちり そわか)
【奥山半僧坊大権現の御分身の例】
建長寺(建長寺派大本山:神奈川県鎌倉市山之内)
平林寺(妙心寺派 埼玉県新座市野火止)
金閣寺(相國寺派 京都府京都市北区金閣寺町 など多数。
今回、帰宅して最も驚いたこと。それは半僧坊を調べていて、埼玉県新座市の「平林寺」と繋がったことでした。
実は平林寺は我が家から然程遠くない場所にありまして、車で目の前を幾度も通っている場所なのです。
ずっと「ここ、気になるなぁ」と思っていた場所が、まさか半僧坊繋がりだったとは!(その後、平林寺の半僧坊にも行って参りました。そのご報告はまた後日・・・と思ったのですが、志がブログにて雪景色の綺麗な平林寺をご紹介しております。よろしければそちらをご覧下さいね♪)
次回は鎌倉建長寺半僧坊について、具体的にご紹介して参りたいと思います。
(続く)
本日もお読み頂きありがとうございました。
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りしております