NHKの自称・貧困女子高生への擁護がことごとく裏目にでてしまった理由
NHKがニュース番組で紹介した女子高校生に、ネット上で批判が殺到した。NHKは「貧困女子高生」と報じたが「生活に余裕がある」「捏造」という内容だ。これに対し、ネット上の批判を「バッシング(いわれのない非難)」とし、抗議する人々もいる。実際、共産党系の団体「エキタス」が、貧困叩き反対デモを行った。はっきり言って、これらの抗議は、問題を深刻化させるだけで、この女子高生を保護することになっていない。なぜなら、擁護の方向性が間違っているからだ。この議論の流れを見ると、批判されているポイントに対し、擁護しようとする側のポイントずらし(論点ずらし)が酷い。↑だれもそんなことは言っていない。見えない敵と戦っているのなら統合失調症を疑ったほうがいい。今回、批判されているポイントは主に2点だ。(1)自称・貧困女子高生はパソコンが買えないことを訴えつつ、実際にはパソコンが容易に買える散財をしていた。(2)NHKは貧困報道をねつ造した。擁護派は、この2点を明確に否定することができないため、盛んに論点をずらして反論を試みる。しかし、「ポイントが違う」とバッサリ斬られ、それに対してさらに熱くなり、今度は「おまえは人情がない」といったように相手の人格を否定する。すると、人格を否定されたことに相手も熱くなり、この問題の議論がヒートアップする。そのように見える。自称・貧困女子高生は本当にパソコンが買えなかったのか?しかし、実は、(1)については、批判する側、擁護する側ともに、争いがない。女子高生の過去のツイッターから、その散財額が明らかにされ、分かっているだけで2~3万円が、観劇や外食などの不要不急の出費である。ちなみに、私は2,3年前にサブ機として中古で1.3万円で買ったノートPCを持っている。Core2duo、RAM4GB、HDD120GB、DVD-ROM、OSはVISTA、オフィスインストール済み。仕事で使う分には十分なスペックだ。こんなパソコン、彼女が1万円のライブと、3回の映画鑑賞を我慢すれば、なんの問題もなく買えた。それは、議論の余地がない「事実」だ。中古ノートパソコン 中古パソコン【Windows7】店長おすすめノートパソコン [Celeron 1.6GHz以上]【新品マウス付】【中古ノートパソコン】【中古】10年前ならいざ知らず、いまやパソコンは高額な商品ではなくなった。新品でも5万円だし、中古なら実用的なスペックで1万円程度からある。この女子高生はスマホとしてi-phoneを使っているのがツイッターで分かっているが、i-phoneよりは確実に安い。ちなみに、私はi-phoneが欲しいが、高いのでAndoroidで我慢している。この指摘をされた擁護側は「貧乏人はプチ贅沢すら許されないのか!」と脊髄反射のように反論するのがテンプレだが、論点ずらしもはなはだしい。ポイントは「女子高生が言った『パソコンが買えない』はウソである」という1点に尽きているのであり、これは反論の余地がない。以下はまとめサイトから抜粋した女子高生の5~8月の出費状況。女子高生が公開しているツイッターより。金額は一部推定。ランチ代等は金額不明のため除く。5月1日 観劇 7800円5月5日 アニメイベント 3000円5月8日 映画鑑賞 2000円5月18日 映画鑑賞 1400円6月19日 映画鑑賞 1400円7月4日 アニメグッズ購入 3000円7月13日 映画鑑賞 1400円7月23日 アニメ映画鑑賞1回目 1400円7月25日 アニメ映画鑑賞2回目 1400円7月26日 アニメ映画鑑賞3回目 2700円7月31日 アニメ映画鑑賞4回目 1400円8月11日 テレビ局イベント 2000円 アニメグッズ購入 5000円8月14日 アニメ映画鑑賞 5回目 1400円+上記に要する交通費10,000円以上⇒5~8月の趣味に関する出費・・・45,000円以上。たったの3ヶ月で4万円を超える出費を「趣味」に投じられる高校生が、日本にどれだけいるだろうか?彼女はこの出費の1/3だけでも趣味ではなく夢に投じられなかったのだろうか?いずれにしても彼女は「貧困でパソコンが買えない」のではなく、「パソコンを買うよりも、趣味に散財することを選んでいただけ」が事実で、買えないのではなく、買わないのである。絶対的貧困とか、相対的貧困とか、そういう用語が用いられる次元の話では決してない。さすがに擁護側の中にも「これらの散財をしなかった場合でも、彼女がパソコンを買う余裕はなかった」といった勇猛な反論は見たことがない。パソコンの実情価格ぐらいは知っているのだろう。NHKは貧困報道をねつ造したのか?(2)については、片山さつき議員の質問にNHKが回答している。要するに「われわれとしては、彼女が貧困を自称するから取り上げただけで、実際に貧困かどうかは確認していない」という内容だ。女子高生が貧困と認識できたかどうかには触れなかったが、ねつ造の意思は否定したようだ。ただ、NHK側の問題についてはこの報道を担当した戸田有紀記者に疑念の目が向けられている。戸田有紀記者は「子ども貧困対策センター設立準備会」の賛同者で、同会のメンバーである。要するに同会は子どもの貧困が盛り上がれば盛り上がるほど、自治体から助成金がつきやすくなるため、戸田有紀記者が自称・貧困女子高生をことさらドラマチックに取り上げたのではないかという疑念だ。このポイントは非常に重要で、もし、巷のうわさどおり、戸田記者が助成金増になんらかの期待をもって、彼女を不適切と知りながら取り上げたとしたら、それは、昭和の「エセ同和」の構造と酷似してくる。今回の件について、世間の反応が非常に強いのは、「エセ」の臭気を敏感に嗅ぎ取ったからではないか。少なくとも、私はそうだ。真の弱者救済を妨げるのはいつも「似非(えせ)」本件については、明らかに面白がって女子高生に悪質な暴言を吐く輩もいる。しかし、大体はまっとうな批判である。どうして世論が本件にこれほど厳しいのか?それは、女子高生が弱者だからではない。まったく逆だ。ネットの情報から、自称・貧困女子高生が偽装弱者、つまりエセだと分かったからだ。自称・貧困女子高生にせよ、NHKにせよ、批判側のポイントはひとことで言うと「ウソはいけない」という一点につきる。擁護側の中には「実際に貧困の子どももいるのだから、ウソもあり」という暴言を吐く輩もいる。とんでもないことだ。部落問題、同和問題の歴史からも分かるように、世の中から差別をなくす邪魔をしてきたのは、いつの時代もエセである。弱者を装い、ゆすり、たかり、差別そのものがなくなると困るので、世間vs弱者の構造をあおる輩だ。そうした、エセの存在を知っているから、世間はエセを憎んでいる。ウソの貧困と事実と異なる貧困報道を憎んでいる。この女子高生について言えば「私はパソコンが買えないほど貧困だ」と自らの口で主張したにもかかわらず、少なくとも「パソコンが買えない」の部分についてはウソであることが判明したから世間は怒っているのであって、決してこの女子高生が富裕層だとか、貧困層は我慢しろと言っているわけでもない。自称・貧困女子高生は相対的貧困層なのか?擁護側では女子高生を弁護する際に「相対的貧困」という言葉を使いたがる人も多い。・絶対的貧困・・・収入がほぼなく、非常な生活苦に陥っている。・相対的貧困・・・多少の収入はあるが、他の家庭よりも少なく、平均的な生活はおくれない。要するに相対的貧困とは「他人よりもお金がなくて困っている」という概念なので、分かりにくい。日本では年収125万円以下が相対的貧困層に分類されているようだ。しかし、この女子高生の世帯の収入が分かる情報ソースはない。(プライバシーの問題があるので当然だ)なので、この女子高生を「年収125万円以下の相対的貧困層」と定義して弁護するのは無理がある。少なくとも、この女子高生のツイッターで判明している散財が、年収125万円の世帯では極めて困難であろうことが、常識的に推測される程度だ。親から子に連鎖するのは、貧困ではなく、知性この女子高生は顔をさらけ出して、貧困を考えるフォーラムで発言し、NHKの取材に応じている。もちろん、そのことが、ウソをついていい免罪符には一切ならない。しかし、私はこの自称・貧困女子高生が世の中をだまそうとする悪意はなかったかもしれないと思っている。もしかして、この女子高生は、本当に自分が貧困で、かわいそうで、社会は自分のような人を助けるべきだと信じていたのではないだろうか。ほかの高校生も、自分と同じように、同じ映画を5回も見て、1万円のライブ行き、月1ペースで1800円のランチを食べて。それでも皆、10万円のパソコンを買えていて、不公平だと憤慨していたのではないだろうか?金融広報中央委員会「知るぽると」の調査によると、高校生の平均的なお小遣いは5000円だそうだ。少なくとも、お小遣いの点で、彼女は「相対的貧困」でもなんでもない。ほかの高校生が当たり前にやっている「●●を我慢して、○○を手に入れる」という概念がないだけだ。その結果「散財したから、必要なものが買えないで困っている」という当たり前の事態に陥った。そこまではまだいいが、それを「貧困」と自称したから、世間から「それは違う」と非難されたのではないか。これは、彼女の生来の気性も多少はあるかもしれないが、親からの消費行動が遺伝した可能性が高い。学問は学校の影響もあるが、教師が買い物につきあうわけもないので、子どもは消費行動だけは完全に『親から学ぶ』。彼女を思うと、過去記事・月収15万円で家賃1万3千円でも「貧困を苦に娘殺害」いったいなぜ?を思い出す。「母子家庭の子供だから、と世間から思われないよう娘に持ち物や服などを買い与えることを優先させた」「世間体で娘の持ち物や服を買ったら、支出が収入を上回るようになった」といった理由で、家賃を滞納し続けた母親が、ついに公営住宅の立ち退きを命じられ、立ち退きの当日に娘を殺害したという、身勝手極まりない事件だ。私はそこで書いた。物事の優先順位がつけられず、お金を管理できず、生活に必要なものをわからず、世間体を気にして見栄を張り、節約ができず、我慢ができず、執拗にうらみ、自己中心的で、衝動的に行動する。 ・・・これを昔から日本では平たく「バカ」といっていた。一連の騒動で、親の影は実はあまり見えていないのだが、適切な消費行動を学ぶ機会がなかったのではないだろうか。スラム街の子どもほどの極端な貧困ならば、貧困そのものがリスクだ。しかし、日本において、公立高校が無償化され、さらに公立大学に行けば授業料全額免除が受けられ、絶対的貧困層でも、学業において少なくとも著しい不利を受けることはなくなった現在、子どもを貧困の連鎖に引きずり込むのは、財産のなさではなく、知性のなさだと確信している。実際に、私の近しい人も、そうした貧しい出自であっても、公立大学を全額免除で卒業し、専門職として同世代以上の収入を得ている。ただ、彼の場合、貧困に陥ったのは子どものころの父親の事業の失敗であり、父親は公立大学の卒業者で、母親は高卒ではあったが、文学を好む知的な人であったという点で、両親から高い知性を引き継いでいた。連鎖するのは貧困ではなく、知性という結論は、非常に残酷である。貧困であれば、社会のせい、他人のせいにもする余地があるが、知性はほぼ親の責任に帰結する。しかし、子どもを不幸にしないためには、子どもの貧困に相関性がより高いのが親の収入なのか、知性・・たとえばIQやEQなのかははっきりさせておいたほうが良い。その因子によって対策がガラリと変わってくるからである。ちなみに、TVによく出ている脳科学者の澤口博士は高次知能『IQg』が貧困と負の相関があることが米国などでの研究で報告されているとしていて、私は納得できる仮説だと思っている。だが、、、もうやめてやれこの女子高生は、いま、何を思うのだろう。「あんなこと言わなければよかった」と自分の浅慮を恥じているだろうか?「みんな分かってくれない」と世を恨んでいるだろうか?前者なら、これから彼女は、世の中と正しく向き合い、散財を控えるだろう。よいことだ。後者でも、彼女はせいぜい現状のままだ。大して世間に害はない。だから、言いたい。もう、やめてやろう。許してあげて欲しいとは言わない。理由はどうあれ、ウソをついたことはよくないことだ。しかし、本当は反省していても、この状況で、彼女が「ごめんなさい」とあやまることはできそうもないだろう。「パソコンが買えない、はウソである」「NHKは事実と異なる印象を与えようとした」といった指摘はもともだ。このような指摘をするべきではない、とはいはない。それは言論の自由を損なうことだし、TVという公共の電波でなされたことに、公共の批判が行われることは健全だ。それはあくまで「批判」である。過剰やいわれなき非難をさす「バッシング」ではない。しかし、指摘したら「もう、やっちゃだめだよ」といって終わりにしてあげよう。大人なんだから。もし、「いや、それはウソではない」とか「おまえは心の狭い奴だ」などと、擁護派が議論を吹っかけてきたときにだけ応じればいい。女子高生に静かに自省の機会を与えたいのなら、擁護派こそ、冷静になるべきだ。少なくとも「パソコンが買えないほど貧しい」は誰の目にも明らかに否定されるのだから、そこを争っても反論されるだけで、その反論にあなたたちはまた熱くなっている。その熱さが、この問題を鎮静化から遠ざけることに気づかないといけない。やさしい貴方が、この問題を鎮静化させ『女子高生の保護』を第一の目標にするのであれば、論点をずらし、無理筋の反論を述べたり(それは確実に相手の怒りを買う)、デモを行ったりするのではなく(女子高生は『デモなんか本当にやめて!』と思っているのでは?)、相手を諭そう。「確かに彼女はウソをついたかもしれない。だけどそれは指摘した。それを悪いことだと諭したら、それ以上はやめよう。相手は子どもなのだから。」と。ただし、NHKの、特に戸田記者の関与部分については、全ての経緯が判明するまで、追求をやめてはいけないだろう。エセを使おうとした疑いがある。エセが痛めつけるのは他でもない、本当の弱者なのだ。そうだとすると決して許されることではない。